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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第2章 氷の花

「今は池全体が凍っているから、よく判りにくいかもしれませんが、あれは大きな一つの池なんです。夏には薄紅色の大輪の花が無数に池を埋め尽くして、それはもう壮大な眺めですよ」
「まあ、本当なの? それは是非、見てみたいわ」
 またしても、サヨンは口を押さえる。この男の前で、自分たちの関係がこれからも続いてゆくだろうと期待を抱かせるような発言は極力避けるべきなのに。
「見られますよ。夏になったら、ここに来ましょう」
 夏までこの男といるつもりなんて、毛頭ない。声を大にして叫びたかったが、今は我慢しなければ。
 狼はどうやら出ないらしいけれど、猪だって人間を襲う生き物なのだ。
 サヨンが黙り込んだので、トンジュはまたサヨンをあやすように揺する。
「天上苑って、興味深い名前だと思いませんか?」
 この男なりに何とか雰囲気を良くしようと努力しているのが伝わってくる。このまま頑なに口をつぐんでいるのも大人げない気がして、サヨンは相槌を打った。
「そうよね。何か謂われがあるのかしら」
 サヨンの反応に元気づけられたように、トンジュが勢い込んだ。
「今から百年ほど昔のことですが、この付近に、さる両班が棲んでいたそうです」
 その両班はかつては朝廷で高官を務めたこともあるほどの人物だったが、あまりに国王の信頼が厚かったがゆえに、他の臣下の妬みを買い讒言によって陥れられた。
 讒言であるのは判っていたため、お咎めはなかったものの、その男はそれ以上宮中にはいられず、都から離れたこの地方にやって来て、わび住まいを始めた。
 その両班には美しい一人娘がいた。年頃の娘には毎日、門の前に求婚者が行列をなすほどであった。
 ある日、二人の青年が娘に求愛したことが悲劇の始まりとなった。青年たちは互いに幼なじみの親友であり、実の兄弟同然に仲良かった。その二人の男が同じ娘を好きになったのだ。
 そして、娘も凛々しく理知的なこの二人の男たちを好もしく思った。娘は二人のうちのいずれかを選ぶ羽目になったが、結局、最後まで選べなかった。

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