
氷華~恋は駆け落ちから始まって~
第1章 始まりの夜
サヨンには、その落ち着き払った様子がかえって腹立たしかった。
「馬鹿なことを言わないで。私が婚約を控えた身で逃げ出したりしたら、後はどうなるの? お父さまは、このコ商団は?」
そう、逃げ出すことなら、サヨンだって幾度だって考え、夢想した。けれど、夢物語ならばともかく、現実の話として考えた時、自分一人が逃げ出すなど、ありえない―あってはならない話であった。
自分の身勝手なふるまいのために、父を窮地に陥れることはできない。
「そんなに嫌いな男なら、逃げ出せば良いんです」
次の瞬間、敦周(トンジユ)が放ったひと言は、サヨンを更に震撼とさせた。
「な、何ですって?」
「このまま刻が経てば、明日はやってきます。そうなれば、お嬢さまは好むと好まざるに拘わらず、李氏の若さまと婚約させられてしまうでしょう。お嬢さまは、それでも良いのですか?」
淡々とした物言いが逆に迫りくる現実を否応なく突きつけてくる。
明日はまだ良い。とりあえず結納を取り交わすだけなのだから。だが、それから先は、どうなる?
婚礼の日取りこそ決まってはいないけれど、李スンチョンも父ヨンセもこの結婚にはもの凄く乗り気なのだ。結納が済めば、そう間を置かずして祝言の話が出るのは当然だし、日取りが決まってしまえば、最早、逃れるすべはない。
サヨンが唇を噛んでうつむく姿を、トンジュは無表情に見つめている。
重たすぎる沈黙が二人の間を漂った。
「やっぱり、そんなことはできない」
サヨンは自らの切なる願いを振り払うかのように首を振る。
「先刻も言ったように、これは私一人だけの問題ではないわ。それに、たとえ屋敷を出たって、到底うまく逃げおおせるとは思えないもの」
サヨンはきっぱりと告げた。
そんなサヨンをトンジュはしばらくじいっと見つめた。
その瞳は漆黒の闇を集めたように深く、果てがないように見える。ひとかけらの感情をも宿していないようでありながら、逆に、しきりに何かを訴えかけてくるかのようでもある。
「馬鹿なことを言わないで。私が婚約を控えた身で逃げ出したりしたら、後はどうなるの? お父さまは、このコ商団は?」
そう、逃げ出すことなら、サヨンだって幾度だって考え、夢想した。けれど、夢物語ならばともかく、現実の話として考えた時、自分一人が逃げ出すなど、ありえない―あってはならない話であった。
自分の身勝手なふるまいのために、父を窮地に陥れることはできない。
「そんなに嫌いな男なら、逃げ出せば良いんです」
次の瞬間、敦周(トンジユ)が放ったひと言は、サヨンを更に震撼とさせた。
「な、何ですって?」
「このまま刻が経てば、明日はやってきます。そうなれば、お嬢さまは好むと好まざるに拘わらず、李氏の若さまと婚約させられてしまうでしょう。お嬢さまは、それでも良いのですか?」
淡々とした物言いが逆に迫りくる現実を否応なく突きつけてくる。
明日はまだ良い。とりあえず結納を取り交わすだけなのだから。だが、それから先は、どうなる?
婚礼の日取りこそ決まってはいないけれど、李スンチョンも父ヨンセもこの結婚にはもの凄く乗り気なのだ。結納が済めば、そう間を置かずして祝言の話が出るのは当然だし、日取りが決まってしまえば、最早、逃れるすべはない。
サヨンが唇を噛んでうつむく姿を、トンジュは無表情に見つめている。
重たすぎる沈黙が二人の間を漂った。
「やっぱり、そんなことはできない」
サヨンは自らの切なる願いを振り払うかのように首を振る。
「先刻も言ったように、これは私一人だけの問題ではないわ。それに、たとえ屋敷を出たって、到底うまく逃げおおせるとは思えないもの」
サヨンはきっぱりと告げた。
そんなサヨンをトンジュはしばらくじいっと見つめた。
その瞳は漆黒の闇を集めたように深く、果てがないように見える。ひとかけらの感情をも宿していないようでありながら、逆に、しきりに何かを訴えかけてくるかのようでもある。
