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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

―あの、瞳。まるで、今、頭上にひろがる幾千、幾億の星を浮かべた夜空のようだ。
 その黒瞳に吸い込まれそうな錯覚に囚われ、サヨンは慌てて視線を逸らした。
 トンジュがゆっくりと視線を動かす。
 その視線の先を辿っても、ただ無限の闇が続いているだけだ。彼は自分自身の口から洩れ出る白い吐息が夜陰に溶けてゆくのを見るとはなしに見つめていた。
 サヨンはトンジュの端正な顔を固唾を呑んで見守る。
 やがて、トンジュがゆっくりと向き直った。
「やってみなければ判りません」
「あなたは所詮、他人事(ひとごと)だから、その場限りの気休めが言えるんだわ」
 サヨンは力なく首を振った。
「婚約を嫌って家出をした娘なんて、見つかって捕まってしまえば、それでおしまい。後は家の恥さらしとして生きながら世間的にも抹殺されるでしょう。私は一生、この家の厄介者よ。その危険を冒してまでは到底、できるはずがない」
「いや、俺の話を最後まで聞いてくれませんか?」
 トンジュが淡く笑んでいる。その笑顔には、どこか余裕さえ感じられて。
 サヨンは躊躇いがちに問うた。
「俺がいつ、お嬢さま一人を行かせると言いました?」
「え、それはいったい、どういう―」
 サヨンに皆まで言わせず、トンジュは笑みを更に深くした。
「心配しないで下さい。俺がちゃんと一緒に行きますから」
 サヨンの大きな瞳が見開かれた。
「トンジュ、あなたは自分が何を言っているか判っているの? あなた、きっと、今夜はどうかしているんだわ」
 トンジュは幾度も頷いた。
「正気も正気です、ちゃんと判っていますよ」
 長い沈黙の後、サヨンは小鳥のような瞳をくるっと向けて、トンジュを見た。
 その時、ほんの一瞬、トンジュがいたたまれないように眼を逸らした。しかし、サヨンは、ほんのひと刹那の男の変化を迂闊にも見逃してしまった。
 サヨンは今年、十九歳になった。十八のトンジュよりは一歳年長だが、可憐で愛くるしい顔立ちのせいか、それとも小柄なせいか、大抵、十六、七歳くらいにしか見られなかった。

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