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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

凄腕の商人を父に持つだけあり、芯の強い、しっかり者の娘だが、所詮は大切に乳母日傘で育てられたお嬢さまだ。他人の善意を疑うということを知らない。
 サヨンはえくぼを浮かべてトンジュを見上げる。無防備な様がよりいっそう彼女を幼く見せていた。
 月の光を宿して輝くその瞳に、トンジュはいつしか惚(ほう)けたように見蕩(みと)れている。
「そんな無謀な真似をさせられるはずがないでしょ? 私の結婚にあなたは何も関係ないんだもの。もし、二人で一緒に捕まったりしたら、皆に何と言われることか知れたものではない。最悪の場合、あなたが私を連れて屋敷を出た―つまり、私たちが駆け落ちをしたことになってしまう。そうなれば、あなたのの将来も心配だわ。私は世間的に抹殺されるだけで済むでしょうけれど、あなたは」
 そこで言い淀み、サヨンは気遣わしげにトンジュを見た。
「―生命の危機に晒される」
 家僕が仕える主筋の娘を連れて人知れず屋敷を出るのだ、しかも、その娘は婚約を間近に控えた身であるとすれば、娘を連れて逃げた家僕が重罪であるのは間違いない。
 ひと度捕まれば、到底、ただでは済まない。恐らくは鞭で打たれるなどの烈しい処罰を受けるだろう。父がトンジュを役所に差し出せば、良民の娘を誑かしたとして処刑されるのは確実だ。
 サヨンが不安げに見つめるのに、トンジュは眼を細めて微笑む。
 だが、サヨンは微笑み返さなかった。
「笑っている場合ではないわ」
 ふいに、トンジュが表情を引き締めた。
「とにかく今は逃げることが大切です」
 先刻までの余裕の笑顔とは打って変わった真剣そのものの顔で言った。
「一生、ここに戻れないわけじゃありません。ほとぼりが冷めた頃、戻ってくれば良いのです。旦那さまにとって、お嬢さまは一人娘です。眼に入れても痛くないほど可愛がっていらっしゃる。きっと、何事もなかったかのように迎えて下さるのでは? そのときのためにも、不在は上手くごまかしてくれるはずですよ」
「お父さまが許して下さるとしても、今回は、あの李家絡みの問題よ。お父さまに私に対しての情があるように、李スンチョンも息子を大切に思っているはず。家門ばかりか、息子の体面までこちらがあからさまに傷つけておいて、すんなりと退くことはないでしょう」

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