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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第3章 幻の村

 今、彼女の眼前には、大皿に盛ったその菓子の残骸がある。とはいえ、その中の少しだけは何とか賞味に耐えるだけの出来のもの―要するに黒こげになっていないということ―が混じっている。そういうマシなものは、ちゃんといちばん上の方に乗せておいた。
 サヨンは、なおもしばらくその努力の結果を眺め、それから諦めの溜息をついた。予めトンジュが仕留めた猪を燻製にしてあったので、その猪肉を薄く切り、麦飯を炊いた。
 だが、陽が暮れて周囲が夜の闇に覆い尽くされる刻限になっても、トンジュは帰らなかった。
 森の夜は早い。しかも、山上の森である。昼間ですら、あまり陽が差さないのだから、暗くなるのが下界より早いのは当然ともいえた。
 ミミズクがホロホロと啼く声が余計に心細さを募らせるようで、サヨンは家の外まで何度も出てみた。
 トンジュに早く帰ってきて欲しかった。
 ずっと真っ暗な外にいても仕方ないので、家の中に戻った。
 狭い部屋の内を所在なげに行きつ戻りつしているうちに、サヨンの心に一つの疑念が浮かんだ。
 もしかしたら、トンジュはもう二度とここには戻らないのではと思ったのである。
 主家の娘を物珍しさも手伝って連れ出したものの、早々と飽きてしまったのかもしれない。いや、サヨンがあまりに役に立たないので、邪魔だと思い始めたのかもしれない。
 何しろ、自分は料理一つ、まともにできないのだ。今のところ何とかなっているのは飯を炊くことと、洗濯くらいだけ。トンジュに愛想を尽かされてしまったとしても、文句を言える筋合いではないのだ。
 トンジュが戻ってこなければ、サヨンはここに一人置き去りにされることになる。一人では何もできないのだし、山を下りるといっても、案内人がいなければ森で迷ってしまう。いずれにしても、トンジュは黙って姿を消すだけで、厄介払いはできる。
 都では今頃、いなくなったサヨンとトンジュの大がかりな捜索が行われているかもしれないが、トンジュさえ行方をくらませば、サヨンがどこにいるかは永遠の謎となるのだ。サヨンは都からはるか離れた山の森で、人知れず死ぬことになるだろう。
 後は、トンジュが黙って好きな場所にいけば、新しい暮らしを始められる。

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