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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第4章 涙月

 死がすぐ手前にあるのだと覚悟した瞬間、瞼に父の顔や侍女ミヨン、はるか昔に亡くなった母、屋敷を去った乳母など大切な人の貌が次々に浮かんで消えた。
 いずれもサヨンを可愛がり慈しんでくれた人たちだ。もう、あの人たちに逢うこともないのか。そう思うと残念でならなかったが、これもすべては自らが播いた種なのだ。
 愚かにも卑劣な男にのこのこと付いてきた我が身の罪であった。
「殺したければ殺すと良いわ。それであなたの気が済むのなら、丁度良い」
 サヨンが静かに言うのに、トンジュが口の端を歪めた。
「殺す? 馬鹿を言うな。俺がこれまでどれだけ我慢に我慢を重ねてきたと思ってる」
 トンジュはサヨンを腕に抱き、片足で入り口の扉を蹴り開けた。隙間から中にすべり込むやいなや、サヨンの身体を乱暴に床に放った。その拍子に、腰をしたたか打ちつけ、痛みが走った。
「お願い、乱暴なことはしないで。ひと想いに殺しても構わないから、なぶり殺しにはしないで」
 サヨンは震えながら言った。
 部屋中を燭台の光がぼんやりと照らし出している。蝋燭の焔が風もないのに揺れていた。
 揺らめく火影がトンジュの整いすぎるほど整った横顔に濃い影を作っている。陰になった部分とはっきり見える部分は、ソン・トンジュという男の持つ二面性にも似ていた。
「馬鹿な女だな。俺の言ったことが聞こえなかったのか? 俺はあんたを殺す気はないよ、お嬢さん。生命を取るようなことはしなから、安心しな。まっ、死体と交わるのが趣味だっていう猟奇的な趣味を持ってる奴なら、話は別だがな」
 言うだけ言うと、下卑た表情でサヨンを見て、ひとしきり陰にこもった笑いを洩らした。
 トンジュの台詞の意味がさっぱり判らなかった。小首を傾げて見上げるサヨンから視線を外さず、トンジュが肩頬をひくつかせた。
「世間知らずだと思っていたが、まさかここまで無垢だとはなあ。あんた、本当に何も知らないんだろ、ああ、堪らねえな。色事はからしき駄目な癖に、あの身体だもんなぁ。売れっ妓の妓生の中にだって、これだけ良い身体をした女はお目にかかれやしない」
「トンジュ、あなた、何を言ってるの―?」
「俺がこれからあなたに何もかも教えてあげますよ、サヨンさま」
 トンジュの手がそろりと伸び、サヨンのすべらかな白い頬をつうっとなぞる。

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