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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第5章 彷徨(さまよ)う二つの心

 身体を動かす度に、身体のあちこちが悲鳴を上げていたけれど、今は構っていられない。
 いつまでも、ここにいるつもりはサヨンにはなかった。こんな男の側にいたら、また昨夜のように酷い目に遭わされるのは眼に見えている。
 サヨンはもう二度と、昨夜のような辛くて恥ずかしい想いはしたくない。トンジュはサヨンの意思を力ずくで踏みにじり、彼女の身体を欲しいままに蹂躙した。
 とにかく一刻も早く逃げなければ。
 サヨンは足音を忍ばせて部屋を横切り、両開きの扉を開けた。外は薄陽が差し込んでおり、大方は昼前であろうと推察できた。
 山の上は一日中、どんよりと曇っているが、トンジュが言っていたように真昼間のほんの数時間だけ、薄陽が差す時間帯があるのだ。
 サヨンはもう一度、背後を振り返る。大丈夫、男はまだよく眠っている。あの様子では、まだしばらくは目を覚まさない。その間に、できるだけ遠くまで逃げるのだ。
 最大限の注意を払い、扉を閉めた。ここでトンジュに捕まってしまっては元も子もない。外に出た途端、サヨンは早足で歩き出した。やはり、身体の節々―特にトンジュに蹂躙された下腹部が痛みを訴えているが、今は我慢しなければならなかった。
 眼前に緑の樹々が迫ってくる。冬なお青々とした葉を茂らせる不思議な樹。この森には、同じ樹ばかりが集まっている。
 森に脚を踏み入れるときは流石に躊躇した。トンジュに言わせれば、ここは森のことをよく知らぬ者が迷い込めば、忽ちにして帰り道を見失ってしまうそうだ。実際に、興味本位やこの山でしか取れない貴重な薬草を求めて森に入り込み、道に迷って亡くなった人は後を絶たないとか。
 トンジュ自身、そういった哀れな人の白骨死体を何度も見かけたことがあると言っていた。
 死んだって構うものかと思う。このままトンジュの許にとどまるのは、あの男の言うなりになることを意味している。そんなのは真っ平ご免だ。たとえ死の危険があるとしても、サヨンは僅かな可能性にでも縋りたかった。
 サヨンは大きく息を吸い込み、緑の茂みの中に入っていった。

 トンジュが眼を覚ましたのは、サヨンが出ていってから四半刻後のことである。

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