恋人⇆セフレ
第8章 したい、させたい
「志乃?」
どんなタイミングか、頭に思い浮かんだ男の声が聞こえてきて、すぐさま蓋を押さえ込む。
ガタガタと揺れて隙間から吹きこぼれそうなそれは、美丈夫な男がその人の隣に立った途端静かになった。
きっと恋人なのだろう2人はお似合いで、全く入る隙がない。
この人を好きになっても、俺になんの勝ち目はないと思い知らされる。
「なんだ、もう来たのか。珍しく遅かったから先に買っとこうと思ったのに」
それは、途端に双眼を緩め、優しい顔つきになった人ーー志乃さんの顔を見たら余計にダメだと思った。
たまに遠くから眺めていたから見たことはあったけれど、目の前でいざ見てしまうと破壊力が全く違う。
俺はじくじくと胸に突き刺さる針を感じながら、無理矢理笑みを作った。
「俺の不注意で珈琲を駄目にしてしまったんです。これはサービスさせてください。お席にお持ちしますね」
「あぁ、それでハンカチが汚れてるのか。君は大丈夫だった?」
「…、はい。ありがとうございます」
すぐに俺を心配してくれるその人に、こんな気持ちを抱いてしまっていることに罪悪感を抱く。もしこの人が嫌な人なら、強引にでも奪ってしまえたのに。
ーーーーコロコロと表情が変わる志乃と、それを愛おしそうに見つめる真木の背中を見ながら、伊織はこの気持ちを押し殺すことに決めたのだった。