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蜃気楼の女

第32章 櫻子VS尚子

 櫻子の怒りが静まったと感じた尚子は、何も言わずに櫻子の前に来た。
「改めまして、安田尚子です。櫻子さま、どうぞよろしくお願いします」
 にっこり笑った尚子は、右手を差し出し、握手を求めた。櫻子は顔を横に向けて、そっぽを向いた。
「ふん! あんたね、あたしをだましたのよ! 絶対、許さないから!」
 櫻子は両腕を胸の前で組み、口をへの字に曲げた。その顔を見て尚子はクスッと笑った。
「フフフ 、そういう櫻子さま、キュートです。あたし、そういう櫻子さま、好きです」
 そう言った尚子は櫻子をじっと見つめていた。尚子のにこやかな顔の表情を見た櫻子は、嫌な予感を感じた。櫻子は顔をわずかに紅潮させて言った。
「何、ポーとしてんのよ? あんた、早く平八郎さんのところへ案内しなさい!」
 櫻子は自分の顔を見つめたまま放心状態の尚子の額を人差し指でツンと押した。
「えっ、あ、す、すみません」
 櫻子を見つめてしまっていたことに気が付いた尚子は、顔を赤面させ、慌てて、櫻子の前から即座にきびすを返し歩き始めた。彼女は、食堂から出ると、橋本のいる部屋にまっすぐ向かった。尚子に好きと言われた櫻子は少しだけ嬉しかった。櫻子は前を歩く尚子に声を掛けた。
「ねえ、あんた、絶対、許さない、って言ってるでしょ。シカトするんじゃないわよ!」
 尚子は振り返ることもなく、今日は春の陽気で暖かですねぇ、と小さな声で話をそらし、歩く速度を速くすると、さらに離れていく。その尚子の後を櫻子は追うように早足で歩いた。元気な平八郎に会えるなら、まっ、いっか、と櫻子の怒りはしずまっていった。それどころか、今は嬉しくて気持ちが高揚していた。平八郎が大切な人だと自覚できた櫻子は、男を好きになれる気持ちが自分にもあることを心から喜んだ。そんな気持ちは初めてのことだ。

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