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蜃気楼の女

第36章 橋本浩一の記憶

 田所平八郎は橋本浩一の体を乗っ取るためのプログラムを再生細胞移植術カプセルに仕込んでいた。そんなことと知らない橋本は、自分の記憶がいつ消えてしまうか分からないまま、田所の記憶を引き継ぐつもりでベッドに寝ていた。寝ることしかできない橋本は、過去の記憶をたどっていた。彼は、施術から数時間が経過し、不可思議なことが橋本の記憶に起きていることを感じ始めていた。
 両親の顔を思い出せない。自分に両親がいたのかどうかも分からない。両親から生まれたからこそ、自分が存在している。自明の理だ。小学校はどこだったか。友人の顔が出てこない。そんな記憶を掘り起こそうとしても出てこない。少しずつ、消えていっているとしか思えない。己の脳細胞に田所の記憶が侵略しているのではないか、と疑念がわいてきた。
(また、眠くなってきた。寝ると、必ず現れる鼻が醜く飛び出た男は何者か? 自分とどんな関係があったのか?)
 動けず、ベッドに横たわることしかできない橋本は、思いをはせる。着実に眠くなる時間が増えている。やがて、自分の意識や思考が永遠に眠りにつく。
(今、眠りにつくと、次の目覚めはない。目覚めたとき、あの子がいてくれたらうれしい。はて、笑顔のすてきなあの女の子は誰か?)
 そう考えた橋本は、次の瞬間、驚いた。たった1秒前、初恋だった小学生のあの子の顔を思い描いていたのに、今は、誰を思い出そうとしていたのか、まるで分からない。思い出そうとすると、思い出す記憶がすでにないことに気が付いた。

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