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蜃気楼の女

第36章 橋本浩一の記憶

 やがて、田所の脳が橋本の脳を浸食し、記憶エリアに、田所の記憶が橋本の脳の記憶エリアに上書きされる。
 橋本は田所の裏切りによって殺される、という疑念が強くなる。田所は橋本の体を使って、将来、生きるつもり、だとしたら。橋本には、どんどん、死んでも死にきれない思いが募っていた。
 悪人に急変した田所は、隣室で遺体になっている。橋本は田所に対し何の反撃もできないまま、田所に対し、うらみ、ねたみを抱くことだけで、今となっては何もできない。最終的に記憶が消えるとき、消滅する恐怖さえ、消えている。彼は何者でもない、地球に存在する原子に戻る。生きていた時間そのものが自分のいた時間である。誰かと関わってその相手の中に、自分の存在を記憶していてくれれば、自分は生きていることになる。誰かの脳の中に、自分という原子が、記憶の原子として残る。
 たくさんの著名人の取材をし、対談という形でいろんな人の話を聞いた。その人たちの思考が自分の脳に格納され、記憶され、自分の生きるうえでの力、肉、血になった。これから自分が生きていく上で、その人たちの生き方が何かの力になることは間違いない。否、会ったことが、影響を受けた。その影響は数秒後かも、数年後かも、いつかは分からないが、必ず一人ひとりが記憶され、飛び出す機会をうかがっている。橋本は知識人とのインタビューの記事を雑誌に掲載していた。それは何人もの読者に影響を与えた。橋本はすでにその記憶を消失していた。

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