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蜃気楼の女

第36章 橋本浩一の記憶

 人間は加齢とともに、認知症という脳の障害により、記憶が消える。脳がつかさどる思考以外、臓器を動かすという体の動きを命令する機能を失い、最終的に心臓が停止する。昭和の時代は、人生は、50年と言われた。それが平成の時代になり、人類の寿命は延び、人生100年時代と政府は広報する。肉体の老衰で死を迎えるなら大往生だ。医療技術の進歩だけによって、長期間、寝たまま、行動できないで、天井を見たままの状態で、長命に意味があるか。肉体は滅んでも、人類は最後まで思考することができる。考える力があれば、人は生きることができる。思考することができれば、人生100年というサイクルもあり得ることであり、影響を与え続けることができる。寝たきり、大いに結構、上等だ! われ思う故にわれあり。橋本は寝ながらいつになく興奮した。
 尚子が医療用再生細胞移植術カプセルを公表したら、世界から認知症がなくなるだろう。病気そのものがなくなる。衰えた細胞を新品にしてくれる。安田尚子の発明は、人類史上において最大の発明だ。
 しかし、田所のような邪心を持った輩が出現し、衰えた細胞を交換し、不死をもくろむ。私利私欲に走る。尚子は、発明が悪に利用される可能性があることに気が付き、落胆するだろう。橋本が消滅したとき、失意の尚子は発明を公表しないで、封印する。
 橋本は自分が消滅すると同時、尚子の発明も消滅するという予測が見えたとき、寝ていられない気持ちがわき上がった。
(アァー 田所の策略で、尚子の大発明を埋もれさせたくない! 俺は尚子の力になりたい!)
 橋本は横になりながら、尚子の顔を思い出す。
「おじさんのこと…… 大好きよ。隣にいてくれるだけでいいのぉ…… でも、ときどき、あたしをそのうち…… ちょっとだけでいいの…… 遊んでくれるかなぁー」
 尚子がはにかみながら言うと、橋本の腕をぎゅっと、つかんで体を寄せてきた。尚子の温かい体温が、橋本の腕に伝わった。
 橋本は、田所に脳の記憶や思考の一部を乗っ取られて、それらが田所の脳に入れ替わったとき、思考する橋本が消えたとき、橋本は死を迎える。橋本の人格が消滅する。橋本にはそれがどんな最期かも予想できない。

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