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蜃気楼の女

第38章 邪心による支配

 現代社会から田所によって葬られた橋本は、闇の中を漂っていた。自分の肉体も骨格も感覚も、認知できない暗闇の中、どんな動作をすることもできない闇をさまよっていた。光のない原子だけが存在する世界があるとしたらこんな空間なのかもしれない。原子だけが存在するだけで、原子だけのまま、何も形成しない人間には認知できない空間である。母の胎内にいる胎児は、こんな感覚を10カ月間、自分が存在するという思考を獲得しながら、肉体が成長するのかもしれない。認知できる感覚は、母体から伝わる振動とへその緒を通じて得る血流のみの世界である。
 原子相互が結合し形成し、浮遊ができない質量になったとき、分子を形成し、地上に進出する。体外に放出された胎児は、外界から空気、栄養などの分子を取り込みながら、さらなる分子同士を反応という形で成長していく。この闇はその準備段階の空間かもしれない。
 ベッドで田所の邪心に支配される、いや、抹殺される、つまり、いつ訪れるか分からない死を待っているときが現世としたら、今は死後であり、生前の世界である。どちらも形がなく、捉えどころがない。原子として浮遊しても、何もできない。ただ、ただ、さまようだけだ。それも、超能力を獲得したから感じられる。超能力のない原子は、この闇の中を、外界から力という刺激を受けるまで、ただ、漂っているだけだ。
(今、俺は思考している。だから、存在している。尚子が「おじさんは超能力を獲得したよ」と言っていたが、その超能力があるから、この状態を維持している。すべての生物がこの段階を踏む。生物は転生する、という宗教界の定説だ。宗教者はある種の超能力者だったのだろう。尚子から超能力を与えられた俺は、この不思議な状態を認知し、思考することが許された。
 いずれにしても、邪心に支配された田所をやっつけるため、何かの生物として生まれ出ないと、田所に取られた体を物理的にチェンジすることは不可能だろう。この闇から生まれ出たいが、同じ原子の集合体といえども、思考も、行動もできない静物では、そのチャンスはかなわない。どんな刺激が原子に働けば、物になることができるのか。

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