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優しく咲く春 〜先生とわたし〜

第15章 文化祭(後編)

体育の終わり、人が居なくなった渡り廊下。
その水道で腕を捲って顔を洗う由貴がいた。

夏、グラウンドでの体育。
決して寒くはないはずなのに、いつも長袖で。頑なにその袖を捲ろうともしなかった彼が、休み時間にこうして水を浴びているのを知っていた。

「樫木くん」

音を立てないように近づく。

後ろから名前を呼ばれた由貴は、大袈裟なほど驚いていた。肩を震わせ、返事もしないで、俺の方を振り向く。
水を滴らせた頬。タオルで顔を拭く暇もないままに、俺の顔を見て固まっていた。

その目には、怯えのような色が入っていて、初めて、彼の子どもっぽさを見た気がした。
栗色の淡い色をした瞳が、ゆらゆらと揺れる。

蝉の声が、聞こえなくなりそうだった。



「それ、何の痕? ……火傷、だよね?」



俺は、由貴の腕をゆっくりと掴んで、体操着の裾から少しだけ見えたものを確認する。
長袖の裾をゆっくりと捲ると、おびただしい数の楕円の火傷痕が、生々しくそこにあった。

いや、正確に言えば……刻まれていたのだと思う。

煙草の火か……。

「触らないでください」

由貴は、傷を日の目から庇うように、手を振り払おうとした。
目には、怒りが混ざる。だけれど、その奥の怯えた色は消えない。

『助けて』

一瞬だけ、そう言っているようにも聞こえて、俺はその腕をしっかりと握った。

「誰に? それとも、自分で?」

諦めたように、一呼吸、間を置いて由貴がこたえた。

「……自分で」

明白に、嘘だとわかった。

だが、嘘をつかないといけない理由が、彼の中にはあるのだろう。俺は黙って、その傷を見つめる。
視線が痛くなったのか、由貴はもう一度、俺の手を振り払うと、袖を手首まで伸ばした。
思い出したようにタオルで乱暴に顔を拭くと、下から俺を睨みつける。

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