優しく咲く春 〜先生とわたし〜
第16章 3人の年越し
その夜。
兄は殴られた頬を冷やしながら寝床に入った。俺はそんな兄の姿を見たくなくて、背を向けるようにして寝ていた。
夕食の惨事を思い出して寝付けなくなって、仰向けに寝返りを打った時、同じく背を向けて寝ていた兄が、声をかけてきた。
「春斗」
いつも通りの、柔らかい声。
寝られないことが、あの一件のせいであることがバレている気がして、何となく返事ができずにいた。代わりに、衣擦れの音を立てる。
「悪かったな、目の前であんなことになって」
……兄ちゃんのせいじゃない。
言おうとした言葉は全然出てこなかった。子どもながら、兄の気持ちを想像したらなんだか悔しくて、ぎゅっと目を瞑っていたら、大きな衣擦れの音とともに暗闇から長い腕が伸びてきて、俺の頭を撫でた。
暗闇の中で不意に触れられた体温。
あたたかくて、ほっとする。その頃の俺にとって、兄はもう大人も同然だった。安心させるように、ゆっくりと撫でていく。体の強ばりがなくなっていくのを見計らって、兄は言った。
「……少し、自分で決めてみたかったんだ」
闇に溶けそうな声量で。
……ゆっくりと呼吸を繰り返す音が聞こえる。
「春斗も、好きにしたらいいと思うよ。春斗は俺より優秀だから」
『春斗は優秀だから』
ことある事にそう言った。
優しい兄が大好きだった。兄の言葉に魔法をかけられるように成績が伸びて、父は満足そうだった。
父の心が満たされるのと反比例するように、俺は実家にいるのが苦しくなっていった。
『好きにしたらいい』
いつかの兄の言葉に支えられるようにして、親の反対を押し切って、関東の医大に進学した。納得させるために、九州で1番の偏差値の医大に受かって、さらに偏差値の高い関東の医大を受験した。