メランコリック・ウォール
第29章 香水
「キョウちゃん…っ。私もう、今から出るね。ここにいたくないの」
「分かった。あと10分くらいだから、ちょっと待ってて。大丈夫か?」
「うん。それじゃあ、コンビニで…」
夫と若い女がセックスしているこの家で、シャワーを浴びる事などどうしても出来ない。
一刻も早くこの状況を脱したい。
下着も衣類も化粧品もボストンバッグに放り込むと、また忍び足で階段を降りる。
「ああああっ…はぁん、やぁあっん、あん、あんっ…ーー」
今度はギシギシという生々しい振動が伝わり、寒いのに嫌な汗をかいた。
手が震え、胃がキリキリする。
よその女と、どうぞ遊べばいい。
だけど、なぜこうも私にストレスを与えるのだろう。
見えない、聞こえないところでやってよ…
お願いだから……。
事務所をあとにすると、さっき撮った動画と一緒にオサムへメールを送った。
[家はやめてって言ったよね?]
夫にメールを送るなんて、いつぶりだろう。
オサムはこれを見てゾッとするだろうか。
それともいつもの調子で「うるせえ」と言うだろうか。
どうでもいい……
早く、早くキョウちゃんの元へ……
コンビニに到着し、喫煙所のそばで突っ立ったまま空を見上げた。
乾いた風が枯れ葉を運んでいる。
ーーーああ、私…あの家を出よう。ーーー
ただ漠然とそう思った。
計画など無い。
そう簡単な事ではないなんていうのも、百も承知だ。
今はただ、”あの家を出るんだ”…その思いだけが私を突き動かす気がする。
ぼんやりと空を見上げたまま、ほうっと白い息を吐く。
勢いよく四駆が駐車場に入ってきて、すぐにそれがキョウちゃんであると分かる。
「…アキっ。大丈夫か?」
車から降り、私の姿を見るとキョウちゃんは息を荒げて言った。
「とにかく乗って。」
後部座席に、スーパーの袋とボストンバッグが乗せられる。
私も助手席に乗ると、彼は急ぎ足でコンビニに入っていった。