メランコリック・ウォール
第32章 離陸
「お前、1人かと思ってなにも用意してないぞ。」
少しぶっきらぼうな声がして目をやると、片足を引きずるようにしてお父様が現れた。
「いいよ別に。親父、アキって言うんだ。」
「あ…っお邪魔します。突然すみません…。椎名アキと申します。」
「うむ。彼女か。」
半笑いでお父様が言い、キョウちゃんは「うん。」と答えた。
足を引きずってお茶を淹れようとするお父様を止め、私はポットから急須へお湯を注いでいる。
「今度はどのくらい居られるんだ。」
「1週間くらい。ここは4日に出るよ。宿に泊まって、5日に飛行機乗る。」
「そうか。」
宿に泊まるとは聞いていなかったが、ひとまずここは静かにしていた。
お茶を差し出すと、お父様は「ありがとう、すまんね。」と私の目を見た。
あ、キョウちゃんの目だ…。
嬉しくなって、つい意味もなく微笑んでしまった。
石油ヒーターで温められた和室からは、縁側とその向こうの庭が見渡せる。
「こんな家だけんど、ゆっくりしていき。」
「ありがとうございます。」
それから少しして、「部屋に荷物運んじゃうか」とキョウちゃんが言った。
長い廊下を1番端まで歩き、右側の障子戸を引く。
「俺の部屋、今は物置だからさ。いつもここで寝てる。」
8畳ほどの和室には、小ぶりな本棚と古いテレビ。
小さなテーブルの横に、布団が1人分たたまれている。
頬が緩み、思わず両手の指でつまんだ。
「どうした?」
「ううん…。なんだか嬉しくて…」
「ははっ」
2つのキャリーケースを部屋に入れ、何となく突っ立ったまま窓の外を見た。
寒々しく風に吹かれる梅の木や、散っていく枯れ葉。
その向こうには駐車場が見えた。
紺色の軽自動車と、軽トラックが並んで停められている。
「お父様、運転平気なの?」
「ああ、痛む日はやめろって言ってあるけどね。」
「そう…心配だね。」