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第2章 誘う


 大きな鏡に映る顔を見つめて、一川は自虐的に笑みを浮かべた。
 ……バカじゃん。
 ポケットに入れてあったパスケースを取りだし、力なく棚に置く。
 指先が震えているのに気がついて、反対の手で握り締めた。
 此処に着いたのは二時間前。
 ずっとバカみたいに寒さを堪えて立っていた。
 狂ってる。
 昨日使ったバスタオルが洗濯機に掛けられており、風呂場にはまだ湿気が残っているように見える。
 浴槽に手を付けさせて、後ろから好きに鳴かせることが出来たら愉しいだろう。
 前のパートナーとしたように。
 ふっと我に返り、ゆっくり瞬きを繰り返す。
 落ち着かなければ。
「一川くん、あったか?」
 足音が近づいて呼吸が乱れる。
 ダメだ。
 今は。
 早く、出ていきたい。
「あ、あった。ありました。そこに」
 声が上擦ったのに八条が怪訝そうに眉を潜めた。
 洗面所から出て、笑みを貼り付けてから八条の前にヒラヒラとパスケースを翳す。
「大事なグッズだったんで」
「俺はアニメには詳しくないが」
「ゲームですよ」
「敬語はやめてくれ」
「申し訳なくて……」
 重みのある空気が肩にのし掛かる。
 八条は親指で下唇を擦りながら言葉を探しているようだった。
 出ていく前に、目標は果たさなければ。
「あの、は」
「連絡先を交換しておこうか」
「え?」
 八条は一川の声など聞こえていなかったかのように一人で頷いて携帯を取り出す。
「今回みたいなことがあると困るだろ。また会う機会も出来るだろうから。電話番号くらいはな」
「……い、いいの?」
 そもそもそれが目的で来たのだ。
 まさか相手から申し出られるとは予期もしていなかった。
 一川は夢見心地で番号を登録する。
「ワンギリしてくれ」
「あ、うん」
 すぐに通話ボタンを押す。
 八条は片手で操作をしていたが、ふと顔を上げて一川を見つめた。
「え?」
「一の川で良いんだよな」
「あ、そうだね」
 そこで、一川は訊きたかった質問を喉から絞り出した。
「下の名前は?」
 呼びたいの前に、知りたかった。
 似合うとするなら、宏だと思っていた。
 宏さん。
 ああ、素敵だ。
 八条は唇をぎゅっと結んだかと思うと、脱力した笑みを浮かべて言った。
「何だと思う?」
 こういうところまで愛しい。
 一川はにやけそうな口許を手で隠した。

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