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第1章 愚痴る


「……全く、もう」
 低い声で囁かれたかと思うと、腕の間をすり抜けて俺の首と腰に手が回される。
 あっという間に抱き上げられた。
「僕、今日泊まります。ベッド運ぶから」
 一川。
 ああ、そうだ。
 過去が遠ざかる。
 華奢なはずなのに、力強く俺を運ぶ腕。
 そうだ、男だった。
 彼は。
 ドライヤーをかけたばかりの湿った髪から、自分と美映と同じ香りがする。
 気づくと、一川にすがっていた。
「は……ち、条さ」
「隣に寝てくれ」
 それは懇願に近かった。
 ベッドに下ろされ、困ったように眉をしかめる一川が、俺の隣に横たわる。
 寝室の電気は点けておらず、リビングから漏れてくる淡い光だけが視界を照らす。
「八条、さん。そのままの格好だと寝苦しくない?」
 腰元を締めるベルトを一瞥して、気だるく手を伸ばす。
 寝間着はクローゼットだったか。
 蒸し暑い夜だ。
 取りに行くのも面倒に感じる。
 ガチガチ、とベルトに爪を引っ掻けていたのを見かねて、一川が手伝った。
「……八条さん、酔うと変わるんだね」
「君は変わらないな」
「そう、見える?」
 その言葉尻が気になり、顔を上げると、一川が無表情で俺を見つめていた。
 冷たい瞳にぞくりとする。
「いち、川?」
「ベルトは外れたんで、シャツも脱がすよ」
 手を後ろに引いてベルトを抜き取り、ベッド脇に落とす。
 それから距離を詰めて、ボタンにそっと手を掛けた。
 鎖骨の辺りに汗が滲む。
「ボタンは、いい」
「熱いくせに」
 一川は意地悪く目を細めて、一つずつ緩慢に外していく。
 なんだ。
 この、情事の前のような、空気。
 脱がされていくと言うのは、美映以外にされたことがなかったから。
 ただ、介抱してもらってるだけなのに。
 頭を冷やせ。
「八条さん、胸板凄い」
「……別に鍛えていないが」
 料理人として、自覚ある体型を保てと初めの店で言われた。
 それ以来、二十歳の体重から離れぬよう努力はしてきた。
「一川君は、華奢だな」
 すっと全身に視線を這わせる。
 緩いシャツに短パン。
 今気づいたが、俺のだ。
 どこから見つけてきたのか。
 その袖から覗く白い二の腕。
 血管の浮き出た手首に、締まった太股。
「僕は、ひたすらに事務なんで。オフィスで座りっぱなしの」
「退屈か」
「まあ、それなりに」
 互いの吐息が聞こえる距離。

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