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約束~リラの花の咲く頃に~ⅢLove is forever

第5章 想い

「貴様のような汚い手でこの女に触れてはならぬ」
「ヘン、色男ぶりやがって。憶えてやがれよ」
 こんな場合、大抵、負け犬が口にする科白を吐いて男は這々の体で去っていった。自分では、この男の相手にはならないと読んだのだろう。
 莉彩は震える声で訊ねた。
「危ないところを助けて頂いて、ありがとうございます。もしや、あなたさまは―」
 上背のある男が目深に被っていた鐔の広い帽子をおもむろに持ち上げた。朝鮮王国時代に特有の帽子である。顎紐に当たる部分に、玉を連ねた首飾りに似た紐を付けている。
 切れ長のすっきりとした二重瞼、涼しげな双眸が露わになった。
「あ」
 莉彩は声にならない声を上げた。
「殿下」
 声が、戦慄く。
 意思の強さと思慮深さを表すかのような濃い形の良い眉も、整った鼻梁も何も変わらない。ただ歳月が彼に与えたのは、眼尻のかすかな皺と、口周りにたくわえた髭のみであった。十年前は淡い桃色の服を着ていることの多かった王が今は、蒼色の服を纏っている。
 夕刻と夜のあわいの空のような、深い水の色を思わせるような落ち着いた蒼が端整な美貌によく似合っている。いかにも国王らしい威厳さを増したように見えるのは、何も十年前にはなかった髭のせいだけではないだろう。
 月日は、彼の上にも確かに流れたのだ。
「待っていたぞ、莉彩」
 王の声もまたかすかに震えていた。
「その花は」
 王の視線が地面に落ちたままのリラの花に向けられる。莉彩はしゃがみ込んで、無惨に散らばったリラの花を一本一本拾った。
 何本かは駄目になってしまったけれど、まだ、しっかりと花をつけている枝は残っている。
「リラの花にございます」
「これが、そなたの話していたりらの花か」
 王がそっと手を伸ばし、リラの花を一輪だけ受け取った。薄紫の可憐な花にそっと口づける。
「りらの花の咲く頃、ここで逢おう―、そなたは、あの約束を忘れてはいなかったのだな」
 王がひと言、ひと言を噛みしめるように言った。

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