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約束~リラの花の咲く頃に~ⅢLove is forever

第6章 契り

 残された太った女官は顔色を変えて、おろおろするばかりだ。誰かに知らせにゆこうかという機転は働かないのか、それとも、知らせて自分までもが巻き添えを食らうのが怖いのか―。
 彼女は、なおもしばらくその場で狼狽えていたが、やがて、怖いものから眼を背けるようにして、走り去った。
 後にはただ池の面を静かに風が渡っていくばかりで、水面にはさざ波一つ立っていなかった。

 一方、それから更に四半刻ほどして、莉彩は最後の気力を振り絞って陸(おか)に這い上がった。女官たちがいなくなった後、一旦は沈みかけていた莉彩は意識を取り戻し、死に物狂いで何とか汀まで泳いできたのだ。それは泳いだというよりは、夢中で手脚を動かして漸く辿り着いたという方が適切だった。ともかく、浮き上がった直後は手脚すら動かす力も残っておらず、ただぷかぷかと仰向けに水面に浮いているだけの有様だった。
 しかし、それで息をしながら力が戻るのをを待ち、戻ったわずかな力を振り絞って陸まで辿り着いたのだ。
 溺れ死ななかったのは、悪運が強かったのかもしれない。などと、朦朧とした頭で考えつつ、莉彩は、その場に倒れた伏したままの格好で再びスウっと意識を失った。
―殿下、莉彩はここにいます。殿下、どうか、助けにきて下さい。
 莉彩は恋しい男の優しい笑顔を思い浮かべながら、暗い暗い底なしの沼へと落ちていった。

 その日も長い一日が終わり、黄昏時の蜜色の光が広大な宮殿を黄金色(きんいろ)に染め上げる時刻が訪れる。
 崔尚宮付きの女官守(ス)花(ファ)芳(バン)は早くも襲ってきた睡魔と闘いながら、殿舎の長い廊下を歩いていた。まだまだ、仕事は山のように残っている。今夜、花芳は崔尚宮に付き従って、宿直(とのい)することになっていた。宿直とは、夜勤―平たくいえば寝ずの番をして夜の警護に当たるということである。
―これじゃ、朝まで眠れそうにもないわね。
 当たり前といえば当たり前だが、花芳はまだ二十歳、幾ら眠っても足りることがないほど眠たい。
 花芳が小さな欠伸を噛み殺したまさにその時、物陰からヌッと誰かが顔を覗かせた。
「キャッ」
 花芳が小さな悲鳴を上げる。

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