胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第1章 《槇野のお転婆姫》
《巻の壱ー槇野のお転婆姫ー》
泉水(いずみ)は小さな吐息をひそかに零し、そっと肩を竦めた。むろん、眼前で滔々と泣き言、繰り言を並べ立てている乳母には気づかれぬように、あくまでも細心の注意を払ってである。
「ああ、ほんに私は姫さまがお労しうござりまする」
やれやれと、泉水は延々と続き、いつ終わるとも知れぬ乳母の愚痴に泣きたい気分になる。これで幾度めかになるかも判らぬ吐息を再度吐き出した。そう、泉水が弱り切っているのは、何も良人の多情でも薄情、無情でもない。いつしか泉水を悲劇の女主人公に祭り上げ、その状況設定に心から浸りきっているらしい乳母の態度なのだ。
判ってはいる。乳母は心底、泉水のゆく末を案じているのだ。だからこそ、このようになりふり構わぬ体で、あからさまに嘆き哀しむこともできるのだ。だが、当の泉水自身、良人の夜(よ)離(が)れなぞ端から何とも感じてはいないのだから、何もここまで気にすることはないだろうにと思ってしまう。むしろ、これから日に何度となく、こうやって乳母の繰り言につきあわねばならぬかと考えると、その方が絶望的な気分になるのは、いささか“親の心子知らず”といった罰当たりな行為だろうか。
そう、乳母の時橋は、泉水にとっては母も同然の大切な存在だ。五つで生母を失った泉水を時橋は我が子に対するような情愛を注いで慈しみ育ててくれた。父槇野(まきの)源(げん)太夫(だゆう)は泉水を嫁がせるまで、再婚もせずに娘の成長を見守り続けてきた。今年の春、一人娘の泉水が無事嫁いだのを見届けた上で、この秋にかねてから側に置いていた側室の深雪と正式な祝言を挙げることになっている。深雪と父の間には既に虎松丸という二歳になる男の子まで産まれている。父は泉水にひと言も言わなかったけれど、この日を待ちわびていたに相違ない。
泉水の父槇野源太夫宗俊は、三千石取りの直参旗本である。勘定奉行の要職にあり、幕閣においても重きをなし、時の将軍さまのご信頼も厚い。その長女である泉水の許にふいに縁談が舞い込んできたのは、去年の暮れのことであった。実は、泉水には幼い時分に親同士が決めた許婚者がいた。しかし、その相手の若君が縁組みの整った三年後、急な病で呆気なく夭折してしまったのだ。
泉水(いずみ)は小さな吐息をひそかに零し、そっと肩を竦めた。むろん、眼前で滔々と泣き言、繰り言を並べ立てている乳母には気づかれぬように、あくまでも細心の注意を払ってである。
「ああ、ほんに私は姫さまがお労しうござりまする」
やれやれと、泉水は延々と続き、いつ終わるとも知れぬ乳母の愚痴に泣きたい気分になる。これで幾度めかになるかも判らぬ吐息を再度吐き出した。そう、泉水が弱り切っているのは、何も良人の多情でも薄情、無情でもない。いつしか泉水を悲劇の女主人公に祭り上げ、その状況設定に心から浸りきっているらしい乳母の態度なのだ。
判ってはいる。乳母は心底、泉水のゆく末を案じているのだ。だからこそ、このようになりふり構わぬ体で、あからさまに嘆き哀しむこともできるのだ。だが、当の泉水自身、良人の夜(よ)離(が)れなぞ端から何とも感じてはいないのだから、何もここまで気にすることはないだろうにと思ってしまう。むしろ、これから日に何度となく、こうやって乳母の繰り言につきあわねばならぬかと考えると、その方が絶望的な気分になるのは、いささか“親の心子知らず”といった罰当たりな行為だろうか。
そう、乳母の時橋は、泉水にとっては母も同然の大切な存在だ。五つで生母を失った泉水を時橋は我が子に対するような情愛を注いで慈しみ育ててくれた。父槇野(まきの)源(げん)太夫(だゆう)は泉水を嫁がせるまで、再婚もせずに娘の成長を見守り続けてきた。今年の春、一人娘の泉水が無事嫁いだのを見届けた上で、この秋にかねてから側に置いていた側室の深雪と正式な祝言を挙げることになっている。深雪と父の間には既に虎松丸という二歳になる男の子まで産まれている。父は泉水にひと言も言わなかったけれど、この日を待ちわびていたに相違ない。
泉水の父槇野源太夫宗俊は、三千石取りの直参旗本である。勘定奉行の要職にあり、幕閣においても重きをなし、時の将軍さまのご信頼も厚い。その長女である泉水の許にふいに縁談が舞い込んできたのは、去年の暮れのことであった。実は、泉水には幼い時分に親同士が決めた許婚者がいた。しかし、その相手の若君が縁組みの整った三年後、急な病で呆気なく夭折してしまったのだ。