胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第1章 《槇野のお転婆姫》
健康で成人していれば生涯の伴侶となったその若君は、一千石の旗本の若様で祐次郎といった。次男であったため、槇野家に養子に入り、その跡目を継ぐ手筈になっていた。
もう記憶も朧になってしまったけれど、色白で細面の大人しげな若君だったように記憶している。家格としては槇野家の方が上ではあったが、泉水は祐次郎の歳に似合わぬ落ち着いたところや、争いごとを好まぬ優しげな気性に好感を抱いていた。
風邪をこじらせたのが因(もと)で、寝込むことすらなく容態が急変して亡くなってしまったのだと聞かされた。婚約した身でありながら、三年の婚約期間の間、顔を合わせたのはほんの数度にすぎなかった。それでも、泉水の想い出の中に祐次郎はちゃんと生きている。
祐次郎が亡くなった時、三つ下の泉水は十一歳であった。あれは寒い寒い日のことだった、部屋の前の庭に植わった椿が真っ赤に色づいていて―、その鮮やかな紅はまるで死人(しびと)の血を思わせるほどに艶(つや)やかで美しかった。
あの日、乳母の時橋が泉水を抱きしめて号泣していたのをつい昨日のことのように憶えている。泉水をいつも少し離れた場所から眼を細めて眺めていた少年、穏やかな春の陽差しのように笑っていた少年。
時と共に少しずつ風化してゆく祐次郎の想い出が泉水には哀しかった。自分はこれからの生涯、もう誰にも嫁がぬのだと決めたのは、確かに祐次郎の存在もあっただろう。それに、槇野の姫と婚約した男には不幸がついて回る―なぞという下らぬ噂がいつしか囁かれるようになったのは、祐次郎の病死後まもなくであった。
―あのお転婆姫には、物の怪が憑いておるとのことじゃ。大切な跡取りを物の怪に喰らわれは大変、お家大事、若君大事とあらば、槇野の姫には近づかぬが良い。
誰がいつどこで囁き始めたかは知らねど、噂はいつしかもっともらしく世間にひろまり囁かれるようになってしまった。
槇野源太夫は温厚篤実でもあり、また勘定奉行という要職にも就いている。いわば時の権力者でもあったわけだが、槇野家と縁戚になれるという栄誉があったとしても、泉水を嫁に望む大名旗本家はなかった。
泉水自身、もう二度と嫁がぬとひそかに思い定めていたゆえ、格別にその心ない噂に傷つくことはなかった。むしろ、乳母の時橋の方がよほど落ち込んでいたものだった。
もう記憶も朧になってしまったけれど、色白で細面の大人しげな若君だったように記憶している。家格としては槇野家の方が上ではあったが、泉水は祐次郎の歳に似合わぬ落ち着いたところや、争いごとを好まぬ優しげな気性に好感を抱いていた。
風邪をこじらせたのが因(もと)で、寝込むことすらなく容態が急変して亡くなってしまったのだと聞かされた。婚約した身でありながら、三年の婚約期間の間、顔を合わせたのはほんの数度にすぎなかった。それでも、泉水の想い出の中に祐次郎はちゃんと生きている。
祐次郎が亡くなった時、三つ下の泉水は十一歳であった。あれは寒い寒い日のことだった、部屋の前の庭に植わった椿が真っ赤に色づいていて―、その鮮やかな紅はまるで死人(しびと)の血を思わせるほどに艶(つや)やかで美しかった。
あの日、乳母の時橋が泉水を抱きしめて号泣していたのをつい昨日のことのように憶えている。泉水をいつも少し離れた場所から眼を細めて眺めていた少年、穏やかな春の陽差しのように笑っていた少年。
時と共に少しずつ風化してゆく祐次郎の想い出が泉水には哀しかった。自分はこれからの生涯、もう誰にも嫁がぬのだと決めたのは、確かに祐次郎の存在もあっただろう。それに、槇野の姫と婚約した男には不幸がついて回る―なぞという下らぬ噂がいつしか囁かれるようになったのは、祐次郎の病死後まもなくであった。
―あのお転婆姫には、物の怪が憑いておるとのことじゃ。大切な跡取りを物の怪に喰らわれは大変、お家大事、若君大事とあらば、槇野の姫には近づかぬが良い。
誰がいつどこで囁き始めたかは知らねど、噂はいつしかもっともらしく世間にひろまり囁かれるようになってしまった。
槇野源太夫は温厚篤実でもあり、また勘定奉行という要職にも就いている。いわば時の権力者でもあったわけだが、槇野家と縁戚になれるという栄誉があったとしても、泉水を嫁に望む大名旗本家はなかった。
泉水自身、もう二度と嫁がぬとひそかに思い定めていたゆえ、格別にその心ない噂に傷つくことはなかった。むしろ、乳母の時橋の方がよほど落ち込んでいたものだった。