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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第8章 予期せぬ災難

「そうか」
 誠吉は肩を落とした。その陽に灼けた貌には落胆の色が濃く浮かんでいる。
「お前はどうしても、〝おさよ〟のままでいるのは嫌なんだな」
「誠吉さんにとって、おさよさんって、大切な人だったんですね」
 ごく自然に言葉が零れ出た。
 誠吉は頬を緩めた。
「ああ、大切な女だった」
 その眼は泉水を見ているようで、見てはいない。
「おさよは、初めは俺の妹分みたいな存在だったんだ。俺もおさよも早くにふた親を亡くしちまってさ」
 誠吉は遠い眼で語った。恐らく、彼は今、過ぎ去ったという遠い昔を見ているに相違ない。それから誠吉は訥々と語り、泉水は黙ってその長い話に耳を傾けた。
 誠吉とおさよ共に、この粗末な裏店で産声を上げた。誠吉の父親誠造はやはり飾り職で、なかなかの腕を持っていたという。母はおたきといって、内職で仕立物をしており、こちらも良い仕事をすると、大勢の得意客がいた。その日暮らしではあったけれど、親子三人で慎ましく暮らしていた。
 おさよはその隣に住いでいて、今年二十三になる誠吉より五つ下であった。
「生きていれば、丁度、お前くらいの歳だ」 話の途中で、誠吉は泉水を眼を細めて見つめ、言った。
 おさよの両親は父親は棒手振りの魚屋、母親は近くの一膳飯屋に通いで仲居として奉公していた。誠吉はおさよを妹のように可愛がっており、家族くるみの付き合いがあった。
 誠吉が十の年の冬、江戸に流行風邪が蔓延した。質の悪い風邪で、年寄りや幼い子どもなど抵抗力のない者たちが次々に倒れ、帰らぬ人となった。不幸が突然、誠吉を襲ったのである。働き盛りの誠吉のふた親が次々に病に倒れ、亡くなった。
 誠吉は隣のおさよの家に引き取られたが、おさよの両親もまたそれからひと月ほど後に同じ病に罹り、儚く亡くなった。おさよはまだ五歳だった。相次いで両親を失った幼い二人は以来、肩を寄せ合うようして暮らした。
 誠吉は、おさよを養うために掏摸やかっ払いまでした。
 だが、ある日、おさよが泣いて誠吉を止めた。誠吉がいつものように他人さまの財布をかすめ取って帰ってきたときのことであった。

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