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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第8章 予期せぬ災難

―誠兄ちゃん、もう、こんなことは止めようよ。
 そのひと言に、誠吉はハッと胸を衝かれた。
 その日、ぶつかったふりをして財布を奪ったのは、老婆であった。大店の隠居らしく、
上物の着物を着ており、ぶつかってきた誠吉が盗みを働いたとも知らず、怪我はないかと心配してくれて、菓子までくれたのだ。
 優しげな老婆を騙したことに、誠吉は両親の呵責を憶えずにはいられなかった。
 それが、誠吉が十二のときのことだった。以来、誠吉は掏摸やかっ払いをきっぱりと止め、地味な仕事に真面目に打ち込むことにした。やはり生涯かけての仕事にしたいと考えたのは、父親と同じ飾り職人であった。
 父の手になる見事なかんざしを、幼い誠吉は息を呑んで見つめたものだった。誠吉は近くの佐八という親方の許を訪ね、通いで弟子にしてくれるように頼んだ。通常、子飼いでいっぱしの職人に仕込んで貰うのは住み込みが条件であったが、おさよのことを思えば、到底家を離れることはできない。
 幸いにも佐八は話の判る親方で、特別に通いで弟子になることを認めてくれた。それから数年、誠吉は死に物狂いで修業に励み、二年前、独り立ちすることになった。おさよと誠吉は、いつしか兄妹というより互いを異性として意識するようになった。二人は誠吉が晴れて一人前になったら、所帯を持って夫婦になろうと約束した。
 しかし、その晴れの日を待つことなく、おさよは十六で亡くなった。おさよの生命を奪ったのは痘瘡であった。同じ長屋の幼児が立て続けに何人か罹患し亡くなったのが、おさよにも感染ったらしい。誠吉はもっと幼い時分に痘瘡にかかっていたのが幸いして、かかることはなかった。
「つまらねえ話だったろう」
 すべてを語り終えた後、誠吉は小さな吐息を吐いた。
「いいえ」
 泉水はかぶりを振る。
「おさよさんの名前は、誠吉さんにとって今でもとても大切なものなんだってことがよく判りました。(ひと)
「そんな女の名前をお前につけて、気を悪くはしねえか?」
 泉水は少し考えた後、これにも〝いいえ〟と応えた。
「優しい女だったんですね、おさよさん」
「ああ、自分より、いつも俺のことばかり心配してたな」
 誠吉はそう呟いて、泉水を見て笑った。

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