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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第16章 嵐

「嵐が―吹いて参ったようにございますね」
 時橋がふと洩らしたひと言を、泉水は聞き逃さなかった。
「嵐とな」
「はい、尾張の方より嵐が吹いて参りましたようにござります」
 そこまで言い、時橋がハッとした表情になった。
「申し訳ごさいませぬ。つい要らざることを申し上げました」
「そなた、たった今、尾張より嵐が来たと申したが」
 泉水の問いに、時橋は取り繕ったような笑みを浮かべる。
「いえ、お方さまのお気になさるようなことではごさいませぬ。私めが迂闊にもつい口を滑らせただけにごさいますよ」
「そなたは、いつも余計なことは一切口にせぬ。そして、また、途方もない情報通でもある。そのことを長年共にいた私が知らぬとでも思うてか」
「―」
 時橋は、そっと泉水から視線を逸らす。こんなことも滅多とない。榊原の屋敷に嫁いできてからも、時橋が折に触れ、泉水の近況を実家の父槙野源太夫に書状で知らせていることは知っている。
 時橋は愕くべきほどの物知りだ。それは単に知識のみを指すのではない。むろん、地下ではあるけれど、れきとした公家の娘として生まれた時橋はそれなりの教養を備えてはいる。が、時橋の知識は単に学問的なものではない。その愕くべきほどの情報収集能力こそが彼女の武器なのだ。一体、どこからそのような情報を仕入れてくるのかと首を傾げるたくなるほどだ。
 時橋が個人的に抱えている小者がその手先となって、あちこちから情報を聞き込んでくるのもあるが、彼女自身が入手する情報にも侮れぬものがある。
「時橋、もし知っていることがあるならば、包み隠さず教えて欲しい」
 それは、泉水の心からの願いであった。
 泉水は時橋の前に回り込むと、下から顔を覗き込んだ。
「私は産まれたそのときから、そなたの乳を呑んで育った身じゃ。ゆえに、そなたこそが私の真の母(はは)さまと思うておる。そのそなたに、私がこうして心から頼んでおるのじゃ。知っておることがあるならば、どうか隠さずに教えてはくれぬか」
「勿体ないお言葉にございます」
 時橋の声がかすかに震えた。

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