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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第16章 嵐

「どうした? もしや、上さまの御身に何かあったのか」
 刹那、泉水が考えたのは将軍の御身に急変があったのかということだったのだが、その想像は見事なまでに裏切られた。
「いえ、殿が」
 あまりに慌てたためか、敷居際でまろびそうになり、脇坂は急いで体勢を立て直した。常に冷静沈着をもって知られる脇坂にしては極めて珍しいことであった。
「なに、殿がどうかされたのか!?」
 泉水は眼を見開いた。泰雅の身に何かあったとでもいうのだろうか。暁方に感じた不安が急にせり上がってくる。
「殿は半刻ほど前、上さまお見舞いを終えられ、お城を出られたそうにござります。その直後、曲者に襲われたとのの報がただ今、入りましてございまする」
 相当に急いできたのか、脇坂は肩で荒い息を繰り返している。泉水は茫然として脇坂を見つめた。
「今、今、何と申した? 殿がいかがなされたと」
 確かに言葉は聞こえているのだけれど、それらが頭の中で具体的な意味をなさない。ただ言葉の羅列だけが意味もなく素通りしてゆく、そんな感じであった。
「は、されば、殿が上さまお見舞いから当屋敷に戻られる最中、何者かに襲われ―」
 脇坂が再び同じ科白を口にしている途中で、泉水はそれを遮った。
「して、殿は、殿のご安否は? 殿はご無事でおわすのか」
 気がかりは、やはり泰雅の身の安全だ。泉水の縋るようなまなざしに、脇坂は首肯して見せた。
「はい、私もまだ詳しきことまでは存じませぬが、幸いにも右腕に軽き怪我を負わされただけで済んだと聞き及びおります」
「やはり、お怪我をされたのか?」
「はい、軽きものではあるそうにございますが」
 脇坂は軽傷であることを繰り返し、泰雅帰館に備えての準備があるからと退出していった。
「時橋」
 格別に用があるわけではない。ただ、誰かと話をしたかった。まるで悪い夢を見ているような心地であったが、これが夢などではなく紛うことなき現実だと十分すぎるほど承知している。

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