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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第19章 すれちがい

《巻の壱―すれちがい―》

 きっかけは、些細なことだった。誰にも、どんな人の人生にも、思いかけぬ小さな出来事から、亀裂が生じることがある。その初めは、本当に小さなひずみがやがて少しずつ大きくなってゆき、ふと気が付いたときには最早修復できないような決定的な深いひずみになっていた―ということは別段、特別なことではない。
 それは、どのような人生においても起こり得る現象で、いわば、人間はそういった危うさが常につきまとう日々を生きている。予期せぬ出来事は、人生の落とし穴のようなもので、うっかりそこに脚を取られてしまうと、なかなか抜け出せそうで抜け出せない。否、悪くすれば、もがけばもがくほど、更に深い底の見えない穴に落ちてゆく。そうやって辿り着いた奈落の底からは、なかなか這い出せない。
 もっとも、そんな不幸に見舞われるのは、そう大勢というわけではない。我々人間はいつも危険や不運と表裏一体の現実を生きてはいるものの、実際に、裏側の世界を知ることは稀なのだ。
 むろん、石につまずいた、友人とした、ささやかな賭けに敗れた、ちょっとした夏風邪を引いた―そういった日常と日常の狭間に埋没するような小さな災難なら数限りなくあるし、誰でも遭遇するものだ。ここで言う予期せぬ出来事というのは、その程度のものではなく、遭遇した人の一生すら根本から変えてしまうほどの大きなものである。
 だが、残念なことに、私たちは、その大きな災厄が実は初めは、ちょっとしたことが引き金となって起こり得るのだということに気付かない。
 人の一生は、たゆみない河の流れのように続いてゆく。河が浅瀬や淀んだ淵、流れの烈しい急な場所と様々に形を変えるように、人の一生にもすべてが順風満帆に運ぶ時、その逆に何をしても裏目に出てしまうといった逆境のときとある。
 思えば、泉水の平穏な人生がわずかずつ狂い始めたのも、そのような見過ごしてしまうほど小さなことが原因だったのかもしれない。
 そう、すべては順調にゆき、泉水は幸福そのものだったはずだ。愛する良人の傍で妻として穏やかな日々を紡いでいるはずであった。なのに、いつから、その平穏なはずの日常の均衡が崩れてしまったのか。

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