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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第22章 散紅葉(ちるもみじ)

 泉水は蒼ざめた。身体中の血が引いてゆくような気がした。泉水はもう迷う暇(いとま)もなく、居間の物入れを開けて、中に飛び込んだ。胎児のように身を縮め、できるだけ片隅に寄る。そうすれば、侵入者に見つからずに済むとでもいうかのように。
 泉水は血の気の失せた顔で身を震わせながら、めまぐるしく思考を回転させた。
 もしや、という嫌な予感がする。湯殿を覗いていたのは、あれは間違いなく泰雅だった。もしや、今、表の戸を開けようとしているのもあの男なのだろうか。
―でも、どうして―。
 どうして、泰雅にここが、泉水がこの村にいることが判ってしまったのだろうか。そこまで考えて、身体中の膚が粟立った。
 泰雅はこのひと月の間、泉水のゆく方をずっと追っていたのではないか。泰雅の力をもってすれば、女一人の所在を突き止めることなど造作もないことに違いない。
 泉水は我が身の迂闊さに、ほぞをかんだ。甘かった、甘すぎたのだ。大勢の有能な家臣を持つ泰雅の力を甘く見過ぎていた。
 涙が、溢れそうになる。自分は一体どこまで逃げれば、自由の身になれるのだろう。泰雅はどうして自分をそっとしておいてくれないのだろう。
 両手で顔を覆っていた泉水はハッと顔を上げた。侵入者はついに戸を破ったらしく、脚音がこちらへ近付いてくる。湯殿の戸が開く音が聞こえ、次いで、再び脚音が次第に向かってくる。見つかってしまうと、泉水は身を固くして怯えた。
 脚音がピタリと止む。押入れの前に誰かがいるのが判った。泉水は息を呑んだ。ふいに押入れが外から力一杯開けられた。泉水は怯えを宿した眼で眼前に立つ男を見上げた。
 泰雅との、一ヵ月ぶりの再会であった。
「久しぶりだな、まるで地獄で閻魔にでも逢ったような顔をしているぞ?」
 泰雅が皮肉げな口調で言う。物言いには揶揄するような響きがあるが、その端整な顔は怖いほど冷ややかであった。
「随分と探すのに手間取った。世間毟らずの娘がよくこんな場所を見つけられたものだな」
 まるで馬鹿にしたような口ぶりに、泉水はたまらず言った。
「もう、放っておいて下さい、私は江戸には―榊原のお屋敷にはもう戻るつもりはありません」

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