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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第25章 杏子の樹の傍で

 夢五郎が榊原の屋敷に現れたのは二日前、小間物屋の夢五郎と名乗ったという。むろん、いつものような奇抜ななりをしているはずもなく、至って地味などこから見ても小間物の行商をする男に見えた。どこの屋敷の奥向きにも、こうした小間物売りが出入りする。何も定められた出入りのご用商人だけではなく、こうした通りすがり―一見の行商人もまた出入りを許されることもあった。
 夢五郎はまんまと小間物売りに化けて、榊原邸に忍び込んだのである。若い男前の小間物売りが来たと若い腰元たちが大騒ぎしている中、時橋は何の気なしにその騒ぎの様子を勝手口まで覗きにいったのであった。むろん、簪や笄を買うつもりも、そんな気にもなれなかった。時橋の中には半年前にゆく方を絶ったままの泉水のことしかなかった。
 ところが、である。その若い小間物屋が時橋の方をじいっと見つめていたのだ。勝手口に荷をひろげ、眼にもあやな色とりどりの簪や櫛、笄が並べられていた。その前で若い腰元たちが歓声を上げ、頬を上気させて品々に魅入っている。その女たちに向かい、いかにも愛想の良い声で応対しながらも、男は眼だけははるか後方の時橋に向けていた。
 時橋はその視線に吸い寄せられるように、女たちの群れに近づいた。
―そこのお女中さま、こちらなどはいかがでございましょう。
 男は蒔絵の櫛を一つ手に取り、時橋に差し出してみせる。黒地に梅と鶯が描かれた、季節にふわさしいものだが、時橋のような四十過ぎの女にはいささか派手すぎる。
 だが、男はそんなことには頓着なく、櫛を差し出した。時橋が近づいた一瞬を、男は逃さなかった。素早く耳許に顔を寄せ、〝時橋さまにございますね、今夜八ツにお迎えに上がります〟と囁いた。
―お前は誰?
 思わず誰何しそうになった時橋に、男が意味ありげな笑みを浮かべた。
―必ずや私が姫さまの許にお連れ致しましょう。
 たったそれだけの短いやりとりだった。時橋は、謎の小間物売りがただ者ではないと察した。だが、不思議とその怪しい男を信頼してみる気になった。泉水がゆく方を絶って半年、時橋もそろそろ焦れていたのかもしれない。縋れるものならば、何にでも縋りたいという心境になっていた。この男が泉水の許に連れていってくれるというのなら、信じてみようと賭けたのである。

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