
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第25章 杏子の樹の傍で
―今宵、この場所で。
男はそう言ったきり、もう二度と時橋の方を見ようともせず、何事もなかったかのような顔でにこやかに若い腰元たちの相手を続けていた。
その夜、時橋は勝手口で夢五郎と落ち合い、屋敷をひそかに抜け出したのである。勝手口は使用人が出入りする裏口であり、表玄関のように出入りの監視も厳しくない。
「ほんに、私もまたこうして姫さまにお逢いできるなぞ夢のようにございます」
時橋は泉水を愛おしげに見つめた。まるで母親が娘にするように、手で泉水のほつれた髪を直す。と、時橋の視線が泉水の腹部で止まった。
「姫さま、もしやご懐妊では」
時橋の顔には驚愕の表情があった。無理もない。半年前、榊原の屋敷を出奔した時、泉水には全くその兆候はなかった。むしろ、毎月決まってくる月のものが終わったばかりだった。そのときは懐妊なぞしてはおらぬことを時橋は知っている。
泉水の顔が曇った。再び涙が溢れ、頬を濡らす。
「江戸を出た私はこの山のふもとの村に身を隠していたのじゃ。でも、そこに泰雅さまが―殿がおいでになった」
そこから先は、たとえ時橋にだとて言えなかった。縛られ、物も言えない状態にされて犯されたなぞと言えるものではない。
「まさか、それでは」
時橋が言葉を失った。時橋はすぐに事の次第を悟ったらしい。
「お腹のお子さまのお父君は榊原の殿さまでいらっしゃるのですね」
泉水が小さく頷く。こらえきれなかった涙が次々に溢れ、したたり落ちる。
時橋は泉水を抱きしめた。
「うっ、えっ、えっ」
泉水は時橋の腕の中でまた泣いた。今度はもっと大きな声で、まるでこれまで溜めていた哀しみや、やるせなさをすべて爆発させるかのように泣いた。
「さぞ、お辛かったでしょう。お可哀想に」
時橋は泉水の背をそっと撫でた。
昔、泉水が幼い頃にしてやったように、ポンポンと背中をあやすように叩く。泉水が泣き止むのを辛抱強く待ち続けた。
やがて、泉水が泣き止むのを待って、時橋は問う。
「姫さまはもう、二度と榊原さまのお屋敷にお帰りになられるおつもりはないのですか?」
男はそう言ったきり、もう二度と時橋の方を見ようともせず、何事もなかったかのような顔でにこやかに若い腰元たちの相手を続けていた。
その夜、時橋は勝手口で夢五郎と落ち合い、屋敷をひそかに抜け出したのである。勝手口は使用人が出入りする裏口であり、表玄関のように出入りの監視も厳しくない。
「ほんに、私もまたこうして姫さまにお逢いできるなぞ夢のようにございます」
時橋は泉水を愛おしげに見つめた。まるで母親が娘にするように、手で泉水のほつれた髪を直す。と、時橋の視線が泉水の腹部で止まった。
「姫さま、もしやご懐妊では」
時橋の顔には驚愕の表情があった。無理もない。半年前、榊原の屋敷を出奔した時、泉水には全くその兆候はなかった。むしろ、毎月決まってくる月のものが終わったばかりだった。そのときは懐妊なぞしてはおらぬことを時橋は知っている。
泉水の顔が曇った。再び涙が溢れ、頬を濡らす。
「江戸を出た私はこの山のふもとの村に身を隠していたのじゃ。でも、そこに泰雅さまが―殿がおいでになった」
そこから先は、たとえ時橋にだとて言えなかった。縛られ、物も言えない状態にされて犯されたなぞと言えるものではない。
「まさか、それでは」
時橋が言葉を失った。時橋はすぐに事の次第を悟ったらしい。
「お腹のお子さまのお父君は榊原の殿さまでいらっしゃるのですね」
泉水が小さく頷く。こらえきれなかった涙が次々に溢れ、したたり落ちる。
時橋は泉水を抱きしめた。
「うっ、えっ、えっ」
泉水は時橋の腕の中でまた泣いた。今度はもっと大きな声で、まるでこれまで溜めていた哀しみや、やるせなさをすべて爆発させるかのように泣いた。
「さぞ、お辛かったでしょう。お可哀想に」
時橋は泉水の背をそっと撫でた。
昔、泉水が幼い頃にしてやったように、ポンポンと背中をあやすように叩く。泉水が泣き止むのを辛抱強く待ち続けた。
やがて、泉水が泣き止むのを待って、時橋は問う。
「姫さまはもう、二度と榊原さまのお屋敷にお帰りになられるおつもりはないのですか?」
