
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第26章 別離
母の身を思わなければ、わざわざ江戸から京を往復し、更にこの山の上の寺まで父からの金を届けにきたりはしないだろう。
身二つになるまでは修行を一時休んでいた泉水も、今では再開している。朝は陽の昇る前に起き、掃除や水汲みをこなしながら、光照について日々の厳しい修行をこなしていた。その合間に黎次郎に乳を含ませたりするのだ。
とはいえ、傍には時橋がいつも付いていて、何くれとなく助けてくれるゆえ、格別に辛いとも思わない。実のところ、乳を呑ませるの以外は、時橋が殆ど黎次郎の面倒を見てくれていると言っても良い。そのお陰で、泉水は心おきなく厳しい修行に専念できるのだ。時橋が来るまでは伊左久と分担していた仕事も三人でやれば、随分とはかどるし楽にもなった。
修行は確かに厳しいけれど、今の泉水には光照のような尼僧になりたいという理想がある。そのための苦労なら苦労とはいえない。何より、愛する我が子や母とも慕う時橋が傍にいてくれる日々は泉水にとっては幸せといえた。
泉水が胸許をひらくと、豊かな膨らみが現れる。それをくわえさせると、黎次郎は無心に吸った。満足のゆくだけ呑んだ赤子はあっさりと乳を離す。泉水は胸許をかき合わせ、満ち足りた顔の我が子を見つめた。黒いつぶらな瞳にはまだ涙の雫が残っている。それでも泉水を認めると、にこりと笑うその表情は何とも愛くるしい。開いた小さな口から生えたばかりの前歯が覗いた。
「まあまあ、黎次郎さまのお顔のお可愛らしいこと」
時橋は早くも相好を崩している。いや、時橋だけではなく、光照にしろ伊左久にしろ、皆が黎次郎を孫のように溺愛している。時橋はともかく、伊左久も光照も一度憂き世を捨て、孫と呼ぶ血を分けた存在も持たない淋しい境遇であった。
時橋には嫁いだ三人の娘たちにはそれぞれ子がいる。従って、孫はいるのだが、時橋にしてみれば幼くして離ればなれになった我が娘の生んだ孫よりは、ずっと常に傍にいる泉水の生んだ黎次郎の方に情が湧くらしい。
黎次郎が生まれるまでは、いつでも森閑としていた庵が今では賑やかで明るい雰囲気に包まれている。
それに―、泉水にはもう一つ、最近、気になっていることがあるのだ。
身二つになるまでは修行を一時休んでいた泉水も、今では再開している。朝は陽の昇る前に起き、掃除や水汲みをこなしながら、光照について日々の厳しい修行をこなしていた。その合間に黎次郎に乳を含ませたりするのだ。
とはいえ、傍には時橋がいつも付いていて、何くれとなく助けてくれるゆえ、格別に辛いとも思わない。実のところ、乳を呑ませるの以外は、時橋が殆ど黎次郎の面倒を見てくれていると言っても良い。そのお陰で、泉水は心おきなく厳しい修行に専念できるのだ。時橋が来るまでは伊左久と分担していた仕事も三人でやれば、随分とはかどるし楽にもなった。
修行は確かに厳しいけれど、今の泉水には光照のような尼僧になりたいという理想がある。そのための苦労なら苦労とはいえない。何より、愛する我が子や母とも慕う時橋が傍にいてくれる日々は泉水にとっては幸せといえた。
泉水が胸許をひらくと、豊かな膨らみが現れる。それをくわえさせると、黎次郎は無心に吸った。満足のゆくだけ呑んだ赤子はあっさりと乳を離す。泉水は胸許をかき合わせ、満ち足りた顔の我が子を見つめた。黒いつぶらな瞳にはまだ涙の雫が残っている。それでも泉水を認めると、にこりと笑うその表情は何とも愛くるしい。開いた小さな口から生えたばかりの前歯が覗いた。
「まあまあ、黎次郎さまのお顔のお可愛らしいこと」
時橋は早くも相好を崩している。いや、時橋だけではなく、光照にしろ伊左久にしろ、皆が黎次郎を孫のように溺愛している。時橋はともかく、伊左久も光照も一度憂き世を捨て、孫と呼ぶ血を分けた存在も持たない淋しい境遇であった。
時橋には嫁いだ三人の娘たちにはそれぞれ子がいる。従って、孫はいるのだが、時橋にしてみれば幼くして離ればなれになった我が娘の生んだ孫よりは、ずっと常に傍にいる泉水の生んだ黎次郎の方に情が湧くらしい。
黎次郎が生まれるまでは、いつでも森閑としていた庵が今では賑やかで明るい雰囲気に包まれている。
それに―、泉水にはもう一つ、最近、気になっていることがあるのだ。
