
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第26章 別離
夢五郎は金輪際、月照庵を訪れるつもりはなかった。逢えば、迷いを生む。迷いは執着を呼ぶだろう。これで良いのだ。今、別れれば、夢五郎は醜い執着に囚われることなく、あの山上の小さな庵で過ごした束の間の幸せな刻は夢であったのだと思うことができる。
夢は、やがて想い出に変わるだろう。
―泉水。
夢五郎は、心の中でもう一度だけ、愛しい女の名を呼ぶ。ついに一度も〝泉水〟と名を呼ぶことはなかった。出逢ったときそのままに、〝姐さん〟と呼び続けた。せめて一度くらい、名前で呼んでみたかった。
判っていたはずだ。あの女なら、泉水なら、必ずそう応えるはず―共にはゆけないと応えるはずだと判っていながら、それでも口にせずにはおれなかった。一緒に来てはくれないか―、と。
何をしてやりたくても、自分はもう泉水に何もしてやれない。それがやるせない辛さとなって、心を苛む。まるで心をあの山の上の寺に置き忘れてきたようで、ぽっかりと身体の芯に大きな空洞ができたようだ。
しかし、これは夢五郎が己れで選んだ道だ、もう引き返せない。綾小路藤原家の嫡子であるという憂き世のしがらみは、とうとう最後まで彼を縛りつけ、解き放ってはくれなかった。誰より守ってやりたいと願ったのに、結局、守ってやれなかった。
夢五郎の中に苦い悔恨が湧き上がる。ふいに胸に熱いものが押し寄せ、夢五郎は一、二度眼をまたたき、想いを振り切るように手綱を引き、馬を走らせる速度を上げた。
山上の小さな庵が次第に遠ざかってゆく。
夢は、やがて想い出に変わるだろう。
―泉水。
夢五郎は、心の中でもう一度だけ、愛しい女の名を呼ぶ。ついに一度も〝泉水〟と名を呼ぶことはなかった。出逢ったときそのままに、〝姐さん〟と呼び続けた。せめて一度くらい、名前で呼んでみたかった。
判っていたはずだ。あの女なら、泉水なら、必ずそう応えるはず―共にはゆけないと応えるはずだと判っていながら、それでも口にせずにはおれなかった。一緒に来てはくれないか―、と。
何をしてやりたくても、自分はもう泉水に何もしてやれない。それがやるせない辛さとなって、心を苛む。まるで心をあの山の上の寺に置き忘れてきたようで、ぽっかりと身体の芯に大きな空洞ができたようだ。
しかし、これは夢五郎が己れで選んだ道だ、もう引き返せない。綾小路藤原家の嫡子であるという憂き世のしがらみは、とうとう最後まで彼を縛りつけ、解き放ってはくれなかった。誰より守ってやりたいと願ったのに、結局、守ってやれなかった。
夢五郎の中に苦い悔恨が湧き上がる。ふいに胸に熱いものが押し寄せ、夢五郎は一、二度眼をまたたき、想いを振り切るように手綱を引き、馬を走らせる速度を上げた。
山上の小さな庵が次第に遠ざかってゆく。
