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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第27章 黒い影

《巻の弐―黒い影―》

 話は前に遡り、泉水が黎次郎を生む少し前のことになる。夏の盛りを迎えた江戸の榊原邸の一室で泰雅が浴びるように酒を呑んでいた。ここは奥向きにある泰雅の部屋である。当主の居室自体は表にあるが、奥向きを訪れた際、休憩するための部屋があるのだ。
 妻が失踪してからというもの、泰雅はこの奥向きの部屋で殆ど一日中を過ごすようになった。泰雅が寵愛していた奥方は、一昨年の秋に突如としてゆく方知れずになった。当初、泰雅は気狂いのようになって、そのゆく方を探し回った。家臣に命じて江戸市中の探索に当たらせ、それでも手がかりが掴めぬとなると、妻の父―つまり舅に当たる勘定奉行槙野源太夫にも事の次第を打ち明け、協力を要請した。
 源太夫は勘定奉行の前には北町奉行を務めている。そのため、町方にも顔が利く。嫁いだ娘が突然、屋敷を出てゆく方知れずとなったことを知り、源太夫は驚愕した。泉水の乳母時橋からはしばしば泉水の榊原家での暮らしぶりが書面で伝えられてはいたものの、そこには夫婦仲が険悪だといったことは一切記されてはいなかった。良人に愛され、幸せに暮らしていたはずの泉水が何ゆえ、出奔なぞせねばならなかったのか。源太夫は大いに衝撃を受け、疑問を抱いた。
 そこで初めて泉水の入輿に伴って榊原家に赴いた老臣坂井琢馬を呼び寄せ、詳しい事情を訊いたのである。初めは口を開こうとしなかった琢馬だが、やがて泉水がもうかなり前から泰雅を避けるようになっていたことや、二人の仲が冷めたものになっていたことを白状した。
 琢馬は遠慮がちに源太夫に言上した。
―その、姫さまはどうも榊原の殿さまが夜な夜なお渡りになられるのをお厭いあそばされておられたご様子にて。
 口ごもりながら言う琢馬の話から、泉水が泰雅と寝所を共にするのを嫌がっていたことが判明した。
 源太夫は初めて知る娘の現実と苦悩に直面し、愕然とした。泉水が失踪した原因も恐らくはその辺りにあるのだろうと見当はついた。泉水が嫁いでしばらくは、こまめに便りをよこし近況を知らせてきた時橋だが、ここしばらくは当たり障りのない内容だけが形式的に綴られているのみであった。

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