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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第28章 出家

「私は一度は捨てた我が子に再びあいまみえることが叶いました。しかし、それは本当に私が幸運であったからにすぎませぬ。もし仮に、今、剃髪したとして、おせんどのは二度と黎次郎に逢えなくなったとしても構わぬと仰せですか。それだけの覚悟を持っていますか」
 二度と黎次郎には逢えない―、その言葉は泉水の決意を烈しく揺さぶった。ふた月前、脇坂倉之助に黎次郎の身柄を託した後も、泉水はまだいつか黎次郎に逢えるのではという微かな希望を抱いていた。いや、その儚い望みは祈りとも言うべきものであった。その望みに縋っていなければ、到底、我が子を手放した淋しさに耐えられなかったからだ。
 しかし、よくよく考えてみれば、榊原家の世継として江戸に赴いた黎次郎と二度と逢えるはずはない。あの日あの時、脇坂倉之助の手にゆだねたその瞬間から、我が子は我が子でありながら、遠い存在になった。恐らく、泉水と黎次郎の人生が交わることは二度とないだろう。
 また、頑是なき子を捨てたも同然の母に、母親面して逢える資格があるとは思えなかった。
「俗世にあらば、またいずれ山を下り、黎次郎に逢えることも叶うやもしれませぬ。今この時に急いで剃髪する必要はないのではありませんか? 今しばらく刻をおいて、それでも、おせんどのの決意が変わらぬというのであらば、私は歓んで剃髪を許しましょう」
「庵主さまは、私がまだ一人前の尼僧になるには至らぬ身と思し召さるるのでございますね」
 泉水が肩を落とした。
 傍に座した時橋はそれまで師弟の会話を固唾を呑んで見守っていた。
「おせんさま、私も庵主さまの思し召しにお従いになられるべきだと存じます。何も今すぐご出家あそばされずともよろしいのではございませんか」
 時橋が控えめに口を開いた。時橋にしてみれば、泉水が痛々しくてならない。たった一人の我が子をむざと手放したことが更に泉水を追いつめているように思えてならないのだ。この現世は泉水にとって、あまりにも苛酷すぎるのだろう。泰雅の影から逃れようとすればするほど、泉水は逆に追いつめられ、行き場を失ってしまう。折角、ここで黎次郎との静かな母子だけの暮らしを営んでいちというのに、今また黎次郎を取り上げられた。

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