
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第28章 出家
幸薄い泉水にとって、黎次郎は生命にも等しき宝であった。その黎次郎を泰雅はいとも容易く奪い去っていった。恐らく、泰雅は黎次郎を取り上げることによって、いちばん残酷な方法で報復をはかったに相違ない。母親からいとけなき赤児を奪うことが、いかに酷いことかを知りながら、わざと黎次郎を奪ったのだ。
もう、泉水には、この憂き世にはどこにも逃げ場がない。そう思ったからこそ、泉水は剃髪して俗世から逃れることで、新たな居場所を得ようと懸命にもがいている。光照には、泉水のその懊悩と苦しみが見えるのだろう。
だからこそ、髪を下ろすのをもう少し待つようにと勧めているのだ。
時橋は光照のような徳の高い尼君ではない。だから、煩悩とか御仏のお心だとかはからきし判らない。けれど、生まれ落ちたそのときからずっと我が手で育てててきた泉水の心中だけは手に取るように判った。時橋は時橋でまだ光照はとは別の見方で、泉水の仏道へと逸る心に一抹の危惧を抱いていたのである。
時橋はひたすら泉水の身を案じた。
ふいに泉水がその場に打ち伏した。
「私は苦しうございます。黎次郎を取り上げられ、私はどうして生きてゆけば良いのでしょうか。私は愚かな母にございます。我と我が身から黎次郎を手放しておきながら、今になって、このような醜い煩悩に囚われるとは情けなきことにございます。最早、この現し世には私の居場所はどこにもございません。黎次郎は―あの子は、私にとっては最後の希望でございました。その希望を失った今、私にはもうこの世にいささかの未練もございまぬ。どうか、庵主さま、私に剃髪をお許し下さりませ。この苦しみから一刻も早く抜け出したいのです、御仏にお仕えして、何もかもみ忘れたい、たとえ逃げだと卑怯だと言われても、今は御仏に縋りたいのです」
泉水は泣きながら訴えた。
「おせんどの―」
流石に光照が言葉を失った。傍らの時橋は見ていられず、そっと袂で眼頭を押さえる。
「本当にそれでよろしいのですね、ひとたび現し世を捨てれば、もう二度と立ち戻ることはできないのですよ」
光照の静かな声が降る。泉水はその場にくずおれたまま、頷いた。
「たとえ何があろうと、後悔はございません」
うっと小さな呻き声が聞こえたのは、時橋が悲嘆のあまり声を殺して泣いているのだった。
もう、泉水には、この憂き世にはどこにも逃げ場がない。そう思ったからこそ、泉水は剃髪して俗世から逃れることで、新たな居場所を得ようと懸命にもがいている。光照には、泉水のその懊悩と苦しみが見えるのだろう。
だからこそ、髪を下ろすのをもう少し待つようにと勧めているのだ。
時橋は光照のような徳の高い尼君ではない。だから、煩悩とか御仏のお心だとかはからきし判らない。けれど、生まれ落ちたそのときからずっと我が手で育てててきた泉水の心中だけは手に取るように判った。時橋は時橋でまだ光照はとは別の見方で、泉水の仏道へと逸る心に一抹の危惧を抱いていたのである。
時橋はひたすら泉水の身を案じた。
ふいに泉水がその場に打ち伏した。
「私は苦しうございます。黎次郎を取り上げられ、私はどうして生きてゆけば良いのでしょうか。私は愚かな母にございます。我と我が身から黎次郎を手放しておきながら、今になって、このような醜い煩悩に囚われるとは情けなきことにございます。最早、この現し世には私の居場所はどこにもございません。黎次郎は―あの子は、私にとっては最後の希望でございました。その希望を失った今、私にはもうこの世にいささかの未練もございまぬ。どうか、庵主さま、私に剃髪をお許し下さりませ。この苦しみから一刻も早く抜け出したいのです、御仏にお仕えして、何もかもみ忘れたい、たとえ逃げだと卑怯だと言われても、今は御仏に縋りたいのです」
泉水は泣きながら訴えた。
「おせんどの―」
流石に光照が言葉を失った。傍らの時橋は見ていられず、そっと袂で眼頭を押さえる。
「本当にそれでよろしいのですね、ひとたび現し世を捨てれば、もう二度と立ち戻ることはできないのですよ」
光照の静かな声が降る。泉水はその場にくずおれたまま、頷いた。
「たとえ何があろうと、後悔はございません」
うっと小さな呻き声が聞こえたのは、時橋が悲嘆のあまり声を殺して泣いているのだった。
