
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第29章 岐路(みち)
やわらかな風が頬を撫でて通りすぎてゆく。
泉水が月照庵を出てゆく日、寺の庭の桜も寺を取り囲む山桜も満開であった。風が吹く度に一斉に薄紅色の花片が舞い上がり、流されてゆく。
山門まで光照が見送りに出てくれた。その背後には、少し腰をかがめた伊左久の姿もある。長い石段を降りきった先には、泰雅からの迎えの輿が待っていた。
「達者で暮らすのですよ」
光照の眼に光るものがあった。伊左久の皺深い顔に埋もれた細い眼も濡れている。
「庵主さまもどうかご息災で」
泉水は新調したばかりの墨染めの衣を身に纏っている。門出の日ゆえと光照が整えてくれたものだ。光照は敢えて、この日を〝門出〟だと言ってくれた。
泉水は伊左久にも深々と頭を垂れた。
伊左久が袖でしきりに眼をこすっている。
多分、泣いているのだろう。この寺に五年もいたのに、光照と伊左久が泣いているのを見るのは、これが初めてであった。
―ありがとう、心優しい人たち。
泉水は万感の想いを込めて、月照庵をもう一度見つめる。たとえ二度とここに来ることはなくても、この寺の佇まいを、ここでめぐり逢った人たちの顔を記憶に刻みつけておくために。
想いを振り切るように月照庵に背を向けと、ゆっくりと一歩、前に踏み出す。一歩一歩踏みしめるように長い石段を降りてゆくい泉水の肩にひとひらの花びらが舞い降りた。
夜をそのまま染め出したかのような衣に、淡い紅色の花片が一枚。それは、夜陰にひさそりと花咲いた夜桜を思わせる。
風が吹き、無数の花びらが舞い上がった。 花びらは雪のように泉水に降りかかる。
花びらを浴びながら、泉水は二度と振り返ることなく、前だけを見つめて歩いていった。
(明日から第10話へ)
