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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第30章 花惑い

―姐さんは何も悪くはねえし、間違ってもいねえ。だが、私は姐さんの気持ちを理解してやることはできても、受け容れることはできねえな。
 あの優しい夢五郎ですら、泉水を受け容れることはできないと言った。惚れた女ならばなおのこと、男は一つ屋根の下に暮らしていれば抱きたくなるものだ、と。
 長年ずっと一緒にいた時橋でさえ、世を捨てた泉水の心を理解しきれず、泉水が世捨て人となったのは自分の力が足りなかったせいだと絶望して死を選んだのだ。
「我が殿はあのようにお姿も麗しく、凛々しくおわします上に、ご英明であらせられ、文武両道に秀でていらせられまする。下世話な申し上げ様にございますれど、殿の御意を受けた娘は皆、歓んでお側に上がったものにございます。さりながら、奥方さまは、どうして、そこまで殿をお嫌いあそばされるのか、この私にはとんと理解できませぬ」
 河嶋が嘆息する。泰雅を育てた母代わりの乳母の言葉ゆえ話半分に聞くとしても、確かに泰雅は女から見て魅力的な男であった。艶やかな美男でありながら、軟弱さは微塵もなく、精悍さと逞しさを兼ね備え、優雅な立ち居ふるまいと女心をくすぐる挙措は女を惑わせるには十分であった。
「私は殿が嫌いなのではない」
 生理的に男を受け容れることができない性(さが)なのだ―。いかにしても、そのようなはしたない科白は口にできるものではない。
「奥方さま、どうか意地をお張りにならず、お幸せになって下さりませ。奥方さまはお世継の若君さまのご生母さまにおわします。ご正室であり、お世継さまのご生母さまであるお方さまには望めば、いかようなるお幸せをも掴まれることができましょう。ましてや、奥方さまは殿にあれほどまでに愛されておいでなのでございますゆえ。殿のお気持ちはただ、奥方さまをお側に置いて、末永く慈しまれたいだけなのでございます」
「もう良い」
 泉水は消え入るような声で言った。
 何も言わず、黙って歩き出す。
「奥方さま」
 追いすがるように河嶋の声が背後で聞こえる。泉水は振り返りもせず言った。
「還俗のこと―、そなたの好きにするが良い。どうせ逆らうこともできず、さりとて、自ら生命を絶つことも叶わぬ身じゃ。生きながら死んだ身であらば、今更、この身が現世(うつしよ)にあろうと、どこにあろうと同じことなのやもしれぬ」

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