
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第30章 花惑い
それだけ言うと、泉水は一人で部屋に戻った。河嶋が後ろから付いてくる。
「済まぬが、一人にしてはくれまいか。少し疲れたゆえ、横になりたい」
泉水が淡々と言うと、河嶋は呆気に取られた様子ながら頷いた。
「承知致しました。どうか、ごゆるりとお休み下さりませ」
河嶋は頭を下げると、静かに襖を開けて去っていった。とはいっても、次の間に控え、泉水が逃げ出したり、自害をしたりせぬようにと眼を光らせるのだ。むろんのこと、老女である河嶋が一日中、泉水にぴったりと張り付いているわけではない。しかし、河嶋が側にいないときは、他の誰か―腰元が必ず一人ないしは二人、次の間に控えていた。警護といえば聞こえは良いけれど、体の良い監視役である。
河嶋が去った後、部屋の中はしんとして物音一つ聞こえない。耳を澄ませてみても、先刻の鶯の音はもう二度と聞こえてはこなかった。
泉水は、その場にへたりと座り込み、畳に身を投げ出した。この屋敷に戻ってきてからまだ数日だというのに、もう何十年も経ったような気がしてならない。
空しい。ただ、すべてが空しかった。
誰も自分の気持ちを理解してくれる人がいない。誰も泉水の本当の気持ちを判ろうとしていない。
河嶋ほどの分別のある聡明な女人でさえ、泉水が泰雅を受け容れぬことを我が儘であるかのように言う。たった一人でも良い、ほんの少しでも良いから、この心を判ってくれる人がいたなら、どれほど心強く救われることだろう。
誰も自分を理解してくれる人はいない。そのことが、泉水の孤独感を深め、絶望の淵へとどんどん追い込んでゆく。理解者が一人もおらぬことがいかほど辛いものかを初めて知った。この広い世界で自分はたった一人なのだと、否応なく思い知らされる。自分には、本当にこの現世には行き場がないのだと改めて思った。
こんな憂き世を捨てたくて尼となったのに、今また泰雅の命によって還俗せねばならぬという。この現世に再び立ち返って、一体どうやって生きてゆけば良いのか。一度世を捨てた身で、どうやって生きてゆけと言うのか。
「済まぬが、一人にしてはくれまいか。少し疲れたゆえ、横になりたい」
泉水が淡々と言うと、河嶋は呆気に取られた様子ながら頷いた。
「承知致しました。どうか、ごゆるりとお休み下さりませ」
河嶋は頭を下げると、静かに襖を開けて去っていった。とはいっても、次の間に控え、泉水が逃げ出したり、自害をしたりせぬようにと眼を光らせるのだ。むろんのこと、老女である河嶋が一日中、泉水にぴったりと張り付いているわけではない。しかし、河嶋が側にいないときは、他の誰か―腰元が必ず一人ないしは二人、次の間に控えていた。警護といえば聞こえは良いけれど、体の良い監視役である。
河嶋が去った後、部屋の中はしんとして物音一つ聞こえない。耳を澄ませてみても、先刻の鶯の音はもう二度と聞こえてはこなかった。
泉水は、その場にへたりと座り込み、畳に身を投げ出した。この屋敷に戻ってきてからまだ数日だというのに、もう何十年も経ったような気がしてならない。
空しい。ただ、すべてが空しかった。
誰も自分の気持ちを理解してくれる人がいない。誰も泉水の本当の気持ちを判ろうとしていない。
河嶋ほどの分別のある聡明な女人でさえ、泉水が泰雅を受け容れぬことを我が儘であるかのように言う。たった一人でも良い、ほんの少しでも良いから、この心を判ってくれる人がいたなら、どれほど心強く救われることだろう。
誰も自分を理解してくれる人はいない。そのことが、泉水の孤独感を深め、絶望の淵へとどんどん追い込んでゆく。理解者が一人もおらぬことがいかほど辛いものかを初めて知った。この広い世界で自分はたった一人なのだと、否応なく思い知らされる。自分には、本当にこの現世には行き場がないのだと改めて思った。
こんな憂き世を捨てたくて尼となったのに、今また泰雅の命によって還俗せねばならぬという。この現世に再び立ち返って、一体どうやって生きてゆけば良いのか。一度世を捨てた身で、どうやって生きてゆけと言うのか。
