
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第32章 変化(へんげ)
《巻の参―変化(へんげ)―》
事件はその翌日に起こった。
泉水は大抵、一日の殆どの時間を写経に費やして過ごす。筆を持ち、かつて慣れ親しんだ有り難い経を一心に書き写しているときだけが、我が身はまだ尼僧なのだと思える唯一の刻でもあった。
朝の写経を終えると、違い棚に置いてある小さな厨子を持ち出し、床の間に据える。普段は閉じたままの扉を開け、中から時橋の忘れ形見の懐剣を取り出す。その剣は、いざという折には身を守る剣ともなり、また、平素は時橋自身を偲ぶよすがともなった。時橋の亡骸は荼毘に付して、月照庵の庭の片隅に小さな墓石を建てて葬った。わずかな遺骨は、時橋の遺品や遺髪と共に三人の娘たちの許に託している。
いわば、泉水にとっては、この懐剣だけが時橋の想い出の品なのだ。泉水は一日に一度は必ずこうして懐剣を外に出し、位牌や持仏を伏し拝むように香華を手向けていた。苦労ばかりかけ、結局は何も孝行らしいこともできなかった乳母へのせめてもの供養であった。
いつものように線香を点し、一心に祈りを捧げていたときのことである。かすかに女の悲鳴が聞こえたように思った。
廊下からはひと部屋を隔てた居間にまでは、なかなか物音や人声は聞こえてこないのだ。少しの間があって、更に今度は大きな悲鳴が聞こえた。次いで複数の女たちの緊迫した声が続く。荒々しい脚音が入り乱れる。
泉水は、閉じていた眼をゆっくりと開く。つと背後を振り返ると、〝美倻(みや)〟と腰元の名を呼ぶ。榊原の屋敷に戻ってきてから新たに泉水付きとなった腰元で、歳は十八になる。少々喋り過ぎの感は否めないが、朗らかでよく気のつく娘だ。
美倻と共にいると、泉水は不思議な懐かしさを憶えることがある。それは、かつて乳母時橋と共にいた頃のような気持ちに似ていた。時橋と美倻では歳は親子ほどに違うし、ふっくらとした女性的な容貌をしていた時橋と異なり、美倻は女ながら上背もあり、痩せぎすで、お世辞にも女性として魅力的とは言い難い。江戸前の小麦色の膚に、顔立ちも細いつり眼で、ちょっと見には狐面のような、きつい印象を受ける。
事件はその翌日に起こった。
泉水は大抵、一日の殆どの時間を写経に費やして過ごす。筆を持ち、かつて慣れ親しんだ有り難い経を一心に書き写しているときだけが、我が身はまだ尼僧なのだと思える唯一の刻でもあった。
朝の写経を終えると、違い棚に置いてある小さな厨子を持ち出し、床の間に据える。普段は閉じたままの扉を開け、中から時橋の忘れ形見の懐剣を取り出す。その剣は、いざという折には身を守る剣ともなり、また、平素は時橋自身を偲ぶよすがともなった。時橋の亡骸は荼毘に付して、月照庵の庭の片隅に小さな墓石を建てて葬った。わずかな遺骨は、時橋の遺品や遺髪と共に三人の娘たちの許に託している。
いわば、泉水にとっては、この懐剣だけが時橋の想い出の品なのだ。泉水は一日に一度は必ずこうして懐剣を外に出し、位牌や持仏を伏し拝むように香華を手向けていた。苦労ばかりかけ、結局は何も孝行らしいこともできなかった乳母へのせめてもの供養であった。
いつものように線香を点し、一心に祈りを捧げていたときのことである。かすかに女の悲鳴が聞こえたように思った。
廊下からはひと部屋を隔てた居間にまでは、なかなか物音や人声は聞こえてこないのだ。少しの間があって、更に今度は大きな悲鳴が聞こえた。次いで複数の女たちの緊迫した声が続く。荒々しい脚音が入り乱れる。
泉水は、閉じていた眼をゆっくりと開く。つと背後を振り返ると、〝美倻(みや)〟と腰元の名を呼ぶ。榊原の屋敷に戻ってきてから新たに泉水付きとなった腰元で、歳は十八になる。少々喋り過ぎの感は否めないが、朗らかでよく気のつく娘だ。
美倻と共にいると、泉水は不思議な懐かしさを憶えることがある。それは、かつて乳母時橋と共にいた頃のような気持ちに似ていた。時橋と美倻では歳は親子ほどに違うし、ふっくらとした女性的な容貌をしていた時橋と異なり、美倻は女ながら上背もあり、痩せぎすで、お世辞にも女性として魅力的とは言い難い。江戸前の小麦色の膚に、顔立ちも細いつり眼で、ちょっと見には狐面のような、きつい印象を受ける。
