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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第33章 儚い恋

 夕刻、外出していた兵庫之助が朝顔の鉢を買い求めてきた。その日、兵庫之助は町人町の筆屋に新しい筆を探しにいった。兵庫之助が使う筆はすべてその店で買うそうで、値段の割には、なかなか良い品を置いているのだと、兵庫之助が話して聞かせてくれた。その帰り道に朝顔売りとすれ違い、買ったという。
 朝顔売りといえば、江戸の夏の風物詩の一つでもあった。泉水は兵庫之助が持ち帰った鉢を表の軒下に置き、早速、水をやった。
 濃紫の大輪の花が三つ、これから咲きそうな蕾が数個ついている。花は既に閉じているが、蕾がたくさんついている。まだまだ、花を愉しめそうだ。涼やかなその花をしゃがみ込んで熱心に見つめていると、背後で笑い声が響いた。
「そうやっていると、まるで子どもだな」
「まあ、ひどい」
 泉水は笑いながら言い返し、兵庫之助を見上げた。微笑み合い、見つめ合うその姿は、どこから見ても、微笑ましい若い夫婦に見える。現に、この長屋の住人は突如として現れ、兵庫之助と共に暮らすようになった泉水を押しかけ女房だと信じ込んでいるようである。
―兵(へい)さん、えらい別嬪の嫁さんを貰ったんだねえ。女っ気の一つもなしで、あたしたちも心配してたけど、なかなか隅に置けないじゃないか。
 詮索好き、話し好きだけれど、とことん人の好い長屋の女房連中は、そう言っては、笑いながら兵庫之助を事ある毎に冷やかした。
 そろそろ夕闇の漂い始めた路地裏を、どぶ板を踏みならし、長屋の子どもたちが元気に駈けてゆく。その無邪気な姿に、ふっと眼を奪われた。
 またしても離れることになってしまったけれど、黎次郎は今頃、どうしているだろうか。
 ふと、そんな想いが胸をよぎる。
 我が身をどこまでも身勝手な冷たい母だと思う。
「屋敷に置いてきた子どものことを考えているのか」
 唐突に問われ、泉水は淡く微笑んだ。
「名前は何というんだ?」
「黎次郎といいます」
 泉水は、子どもたちが消えていった木戸口の方を見たまま応えた。
「黎次郎か、良き名だな。幾つになる?」
「四歳になります」
「そうか、ま、子どもが子どもを生んだようなものだな」

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