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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第34章 涙

《巻の壱―涙―》

 江戸の町外れ、和泉橋町は大藩の上屋敷や高禄の直参旗本の屋敷が建ち並ぶ閑静な武家屋敷町がひろがっている。その中でもひときわ眼を引く広壮な邸宅は五千石を賜る旗本榊原泰雅の住まいである。泰雅は先の将軍の血縁にも当たる高貴な血筋を誇り、なおかつ初代将軍家康公から連綿と続く譜代の家柄の当主でもある。
 その榊原家の屋敷の奥向きの居間で、一人の若い男が浴びるように酒を呑んでいた。長月の初めの、まだ残暑も厳しいこの季節に、真昼からすべての障子を閉ざし、男はたった一人で朝からずっと、酒ばかりを呑んでいる。いや、何も今日に限ったことではなく、毎日、この昼なお暗い部屋に閉じこもり、酒浸りの日々に明け暮れている。
 荒んだ生活は男の身体を徐々に蝕み、この男が病に取り憑かれていることは尋常ではない顔色の悪さからも窺い知れる。が、主人の機嫌を損ねることを怖れ、誰もが男に面と向かって、それを指摘しようとはしない。唯一、男が幼い頃から仕えてきた重臣脇坂倉之助だけが男に果敢にも諫言を幾度か試みたが、男は煩がり、脇坂を一切近付けなくなってしまった。
 今日も男は暗い奥座敷に座り、酒を呑んでいる。だらしなく座り込み、どんよりと濁った眼を虚ろに泳がせながら、それでも手だけは動かしている。手酌で盃を満たしては、煽るように呑み下してゆく。そんなことを殆ど無意識のようにずっと続けているのであった。男の周囲には空になった銚子が十本以上は転がっている。
 男の脳裡には、ある一つの光景が途切れることなく蘇っていた。まるで芝居の同じ場面が延々と繰り返されるように再現されている。男をこれ以上はないというほど手酷く裏切った女の顔―、ふた月ぶりに見た良人の顔を、あの女はまるで幽鬼でも見たかのように怯えた表情で凝視していた。
 女には何度裏切られたか知れない。だが、その度に、男は女を許してきた。もう次はない、今度裏切られれば、あの女を生かしてはおくものか。そう思いながらも、女を愛するがゆえに、男は女をつい許してしまう。が、女は幾ら捕まえ閉じ込めてみても、そんな男の腕からするりと身をかわし、逃げてゆくのだ。
―俺は、お前にとって一体、何なのだ?
 男の淀んだ眼が、血を吐くような叫びを訴えていた。

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