
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第34章 涙
「どうした、思い出し笑いなんかして」
そう言う兵庫之助の方もまた、泉水と同じで、昨夜の出来事を思い出しているのだった。
泉水は生まれつき、異性を受け容れることができない。もっと端的に言えば、生理的嫌悪感を感じるため、男と膚を合わせることができないのだ。そのため、前の良人榊原泰雅とは上手くゆかず、泉水は泰雅の許を何度も逃げ出した。ひとたびは尼となり、仏の道に精進していた泉水を、泰雅は卑怯にも脅迫する形で江戸に連れ戻し還俗させた。が、結局、泉水はやはり泰雅を受け容れることはできず、再び榊原の屋敷を出ることになった。
そして、ついひと月前、屋敷を逃れた泉水の許を泰雅が唐突に訪ねてきた。泉水が既に秋月兵庫之助と共に暮らし始めて三ヵ月が過ぎようとしていた。兵庫之助は泉水の父勘定奉行槙野源太夫の部下勘定吟味役秋月隼人正の四男であり、かつては旗本奴となり、強請りたかりを繰り返しては町の人々から嫌われていた。
しかし、現在は素行を改め、秋月家を出て町外れの裏店で暮らしていた。代書屋をしながら、真面目に堅気の暮らしをしていた。そこに、泉水が押しかけ女房という形で居候するようになったのである。元々、泉水と兵庫之助は以前からの知り合いでもあり、兵庫之助は泉水にひそかに想いを寄せていた。榊原家を出た泉水が一人で和泉橋のたもとで思い惑っていたところを、兵庫之助が声をかけたのだ。実に六年ぶりの再会であった。それがきっかけで、二人は同棲を始め、ゆっくりと信頼と愛情を育んでいったのだ。
昨夜、江戸は季節外れの雷雨に見舞われた。泉水は幼時から雷が大の苦手だ。〝槙野のお転婆姫〟と噂されるほどの跳ねっ返りでありながら、何故か雷だけは怖くてならなかった。
それは今でも変わらず、昨夜もいつものように布団を引き被って震えていた。そんな泉水を兵庫之助は終始、気遣わしげに見守っていた。
―大丈夫か?
傍にいって抱きしめてやりたくとも、男に触れられるのが何より苦手―雷よりも嫌いなな妻の気性をよく知っている彼は、何もしてやれず、ただ心配げに見守っているだけであった。
と、突如としてドーンという轟音と共に空が不気味に赤く光った。泉水が思わずキャッと悲鳴を上げる。
その刹那、兵庫之助は無意識の中に泉水を掛け衾(ぶすま)ごと抱きしめていた。
そう言う兵庫之助の方もまた、泉水と同じで、昨夜の出来事を思い出しているのだった。
泉水は生まれつき、異性を受け容れることができない。もっと端的に言えば、生理的嫌悪感を感じるため、男と膚を合わせることができないのだ。そのため、前の良人榊原泰雅とは上手くゆかず、泉水は泰雅の許を何度も逃げ出した。ひとたびは尼となり、仏の道に精進していた泉水を、泰雅は卑怯にも脅迫する形で江戸に連れ戻し還俗させた。が、結局、泉水はやはり泰雅を受け容れることはできず、再び榊原の屋敷を出ることになった。
そして、ついひと月前、屋敷を逃れた泉水の許を泰雅が唐突に訪ねてきた。泉水が既に秋月兵庫之助と共に暮らし始めて三ヵ月が過ぎようとしていた。兵庫之助は泉水の父勘定奉行槙野源太夫の部下勘定吟味役秋月隼人正の四男であり、かつては旗本奴となり、強請りたかりを繰り返しては町の人々から嫌われていた。
しかし、現在は素行を改め、秋月家を出て町外れの裏店で暮らしていた。代書屋をしながら、真面目に堅気の暮らしをしていた。そこに、泉水が押しかけ女房という形で居候するようになったのである。元々、泉水と兵庫之助は以前からの知り合いでもあり、兵庫之助は泉水にひそかに想いを寄せていた。榊原家を出た泉水が一人で和泉橋のたもとで思い惑っていたところを、兵庫之助が声をかけたのだ。実に六年ぶりの再会であった。それがきっかけで、二人は同棲を始め、ゆっくりと信頼と愛情を育んでいったのだ。
昨夜、江戸は季節外れの雷雨に見舞われた。泉水は幼時から雷が大の苦手だ。〝槙野のお転婆姫〟と噂されるほどの跳ねっ返りでありながら、何故か雷だけは怖くてならなかった。
それは今でも変わらず、昨夜もいつものように布団を引き被って震えていた。そんな泉水を兵庫之助は終始、気遣わしげに見守っていた。
―大丈夫か?
傍にいって抱きしめてやりたくとも、男に触れられるのが何より苦手―雷よりも嫌いなな妻の気性をよく知っている彼は、何もしてやれず、ただ心配げに見守っているだけであった。
と、突如としてドーンという轟音と共に空が不気味に赤く光った。泉水が思わずキャッと悲鳴を上げる。
その刹那、兵庫之助は無意識の中に泉水を掛け衾(ぶすま)ごと抱きしめていた。
