
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第34章 涙
男の中で報復の焔がひときわ烈しく燃え上がる。
「もう、すぐだ。もうすぐ、そなたは俺を憎まずにはおれなくなる」
クックッと男は不気味な忍び笑いを洩らしながら、何がおかしいのか、いつまでも一人で虚ろな笑い声を響かせていた。
誰もおらぬ広い座敷に、男の乾いた笑いが空しく響き渡る。
九月の江戸は、まだ夏の名残を十分に残している。少し歩けば、汗が首筋から背をつたい、汗まみれになる。泉水は長屋の木戸口まで良人を送ったついでに、懐からてぬぐいを取り出した。
「お前さま、ちょっとじっとしていて下さいね」
そう言って、手ぬぐいで良人の額に滲んだ汗を拭く。
甲斐甲斐しく良人の汗をぬぐう妻を、兵庫之助は優しげなまなざしで見つめていた。
「済まねえな」
「あっ、それと―忘れていました」
泉水は更に懐から小さな包みを取り出す。
「これもお持ち下さい」
「これは何だ?」
兵庫之助が小首を傾げる。
泉水は微笑んで、良人に小さな守袋を差し出した。
「近くのお稲荷さんで頂いてきたものです」
「ホウ、泉水が俺のためにお守りを貰ってきてくれるたァ、思わなかったな」
兵庫之助が揶揄するように笑いを含んだ声で言う。
「近頃、嫌な夢ばかり見るんです。単なる夢だとは思いますけど、大切な旦那さまに何かあったら大変ですから、用心のために持っていて下さいね」
大真面目な顔で言う泉水を、兵庫之助は笑顔で見ている。
「判った。俺は、正直言うと、そういうのはあんまり信じない質なんだが、他ならぬ女房の言うことだからな」
兵庫之助は守袋を受け取り、無造作に懐に押し込んだ。
ふと、兵庫之助と泉水の眼が合った。
「行ってらっしゃいませ」
はにかんだような笑みを浮かべ頭を下げる泉水は、どこから見ても幸せそうな若妻そのものの姿である。その泉水の頬が一瞬、うっすらと染まった。兵庫之助はそれを見逃さず、またからかい気味に言う。
「もう、すぐだ。もうすぐ、そなたは俺を憎まずにはおれなくなる」
クックッと男は不気味な忍び笑いを洩らしながら、何がおかしいのか、いつまでも一人で虚ろな笑い声を響かせていた。
誰もおらぬ広い座敷に、男の乾いた笑いが空しく響き渡る。
九月の江戸は、まだ夏の名残を十分に残している。少し歩けば、汗が首筋から背をつたい、汗まみれになる。泉水は長屋の木戸口まで良人を送ったついでに、懐からてぬぐいを取り出した。
「お前さま、ちょっとじっとしていて下さいね」
そう言って、手ぬぐいで良人の額に滲んだ汗を拭く。
甲斐甲斐しく良人の汗をぬぐう妻を、兵庫之助は優しげなまなざしで見つめていた。
「済まねえな」
「あっ、それと―忘れていました」
泉水は更に懐から小さな包みを取り出す。
「これもお持ち下さい」
「これは何だ?」
兵庫之助が小首を傾げる。
泉水は微笑んで、良人に小さな守袋を差し出した。
「近くのお稲荷さんで頂いてきたものです」
「ホウ、泉水が俺のためにお守りを貰ってきてくれるたァ、思わなかったな」
兵庫之助が揶揄するように笑いを含んだ声で言う。
「近頃、嫌な夢ばかり見るんです。単なる夢だとは思いますけど、大切な旦那さまに何かあったら大変ですから、用心のために持っていて下さいね」
大真面目な顔で言う泉水を、兵庫之助は笑顔で見ている。
「判った。俺は、正直言うと、そういうのはあんまり信じない質なんだが、他ならぬ女房の言うことだからな」
兵庫之助は守袋を受け取り、無造作に懐に押し込んだ。
ふと、兵庫之助と泉水の眼が合った。
「行ってらっしゃいませ」
はにかんだような笑みを浮かべ頭を下げる泉水は、どこから見ても幸せそうな若妻そのものの姿である。その泉水の頬が一瞬、うっすらと染まった。兵庫之助はそれを見逃さず、またからかい気味に言う。
