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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第34章 涙

「お内儀さん、お前さんがどこの誰であろうが、あっしは詮索する気は毛頭ありやせん。あっしは商売柄、色んな人間を見てきました。罪を犯す者が皆、極悪非道の奴らばかりじゃねえってこともよく知ってる。いや、むしろ、根っからの悪人よりは、ごく真っ当な普通の人間の方が多いんですよ。それも、止むに止まれぬ事情で、他人を思いがけず手に掛けちまったってえ事件も少なくはありません。恨み、妬み、そんな負の感情が積もりに積もって、ある日突然爆発しちまうんです。それでも、殺しに変わりはねえし、罪は罪ですから、どんなに同情するような事情があったとしても、あっしは下手人をお縄にしなけりゃアなりません。お内儀さんが秋月の旦那と一緒に暮らすようになったのだって、そうなるまでには相当の事情や経緯(いきさつ)があったんでしょう。あっしは、それが悪いことだなんて、これっぽっちも思いませんや」
 泉水は、ひたと勘七を見つめた。老練な岡っ引きは淡々と続ける。
「一昨日の昼前のことです。偶然、和泉橋を通りかかった職人が現場を見ていたんでさ」
「―!」
 泉水が弾かれたように面を上げ、勘七を見た。生気のなかった瞳に、俄に光が戻っている。
「何分、秋月さまを殺した相手の男はたいそう身分の良い、若い武士だったそうで、その職人はすぐには動きもできなかったそうですよ。助けに飛び出していきゃア、自分までばっさりと殺られることは判ってるから、物陰に隠れて震えて事の次第を見ているしかなかったって寸法で。職人が駆け寄ったときには、旦那は既に事切れてたそうです。それで、職人は慌てて逃げ帰った。何しろ、俺と似たり寄ったりの歳の親父で、嫁入り前の娘との二人暮らしの桶職人です。番屋に名乗り出たのは良いが、その後、旦那を殺した武士に逆恨みされたんじゃたまらねえと、なかなか名乗り出られなかったと言ってました」
「それで、うちの人を斬った咎人が誰なのか、親分はご存知なんですね」
 泉水は怒りに燃える眼で勘七に問うた。
「へえ、だが、その咎人の名前を言う前に、あっしはお内儀さんにこれだけは申し上げておきてえ。悪いことは言わねえ。旦那のことは辛かろうが、運が悪かったと諦めなせえ。不幸にもお前さんの亭主は事故に遭ったんだと思って、このことは忘れな」
 事を分けて話そうとする勘七に、泉水は首を振った。

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