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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第34章 涙

「どうして、どうして、諦めろなんて言うんですか? 忘れられるはずがないじゃありませんか、あのひと、三日前はまだちゃんと元気で生きてたんですよ? あの日だって、早く帰ってくるから、一緒に鰻でも食べにいこうって笑って出ていきました。それが、まさかあの人と交わした最後の言葉になるなんて、私もあの人も思ってもいませんでした。その咎人が、うちの人を殺した奴が私たちのささやかな幸せを一辺に壊してしまったんです。私は、そいつを許せない。親分がどうしても教えて下さらないっていうなら、自分で探してでも殺してやります」
「お内儀さん、落ち着きな。ここで、お前さんがそんなに取り乱して、どうするっていうんだ。あっしだって、お縄にできるものなら、とうにしょっ引いてるよ。だが、相手が悪すぎる。あっしのような町方が迂闊に手を出せる相手じゃねえんだ。そりゃア、方法がねえわけじゃねえ。お奉行さまに動いて頂いて、更に上のお目付が出てくれゃア、旦那を殺めた奴をしょっ引くことはできる」
「お目付ならば捕らえることができるというのは―、では、うちの人を斬ったのは旗本なのですか?」
 その時初めて、泉水の胸に嫌な予感が湧き上がった。
「親分、まさか」
 声が、震えた。
 勘七が訳知り顔で頷く。
「そういうことだ。お内儀さん、あっしは、お前さんが元はどこにいたお人か知った上で、今回のことはお忘れになるようにと申し上げているんです。お内儀さんの前のご亭主は、秋月の旦那を生かしておくことはできねえと思うほどに、お内儀さんに惚れてたんだ―。まさに、鬼に取り憑かれたとしか思えねえ酷い所業をしでかしてでも、お内儀さんを取り戻したかったんだろう。―愚かなことだな、そんなことをして女の気持ちを取り戻すことができるはずもねえことは、三つのガキでも判りそうなものを」
 勘七の言葉に、まるで脳天を何かで殴られたような衝撃が走る。言い知れぬ感情が一挙に押し寄せ、逆巻き、泉水は眼の前が真っ暗になって、立っていられないほどであった。
 眩暈がして、思わずこめかみを軽く片手で押さえる。
「大丈夫ですかい」
 勘七が気遣わしげに泉水を見た。老いた十手持ちにも、今の科白が泉水に与えた衝撃がいかほどのものかは容易に想像がついたのだ。

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