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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第35章 哀しみの果て

 今日の泉水は、桜と紅葉を取り混ぜた裾に流水文様の打掛を纏っている。下に合わせた小袖は、はんなりとした紅色。いずれも泉水の帰還後、泰雅が急いで用意させた豪奢なものばかりである。泰雅は泉水の身の回りの品を揃えるのに金に糸目はつけなかった。泉水の願いであれば、何でも聞く。もっとも、この聡明な美しい奥方は狂おしいほどの寵愛に驕ることもなく、閨でねだり事一つしない。
 そのため、泰雅の方が躍起になり、奥方を歓ばせようと、湯水のごとく金を使い簪や櫛、更には身の回りの美々しい調度品などを揃えることになる。だが、氷のように冷ややかな美貌を持つ奥方は、けして微笑もうとすらしなかった。いつも虚ろなまなざしを宙にさまよわせている。
 いつしか榊原家の家臣の間では、
―奥方さまは国を傾ける当の美女、楊貴妃の生まれ変わりやもしれぬ。
 なぞと、口さがない噂がひろがっていた。
 泰雅が以前のように酒に溺れる自堕落な日々から脱却したのは良いが、今度は戻った奥方の機嫌取りに夢中である。政はそつなくこなしてはいるものの、いつも心ここにあらずで、暇さえあれば、奥方の許に飛んでゆく。
―榊原家の内室はその姿、蒼白き月のごとく麗しく冷たい。その冷たい美貌は氷のごとく男の心を捉えて離さず、瞬時に凍えさせる。何があっても笑わない奥方を何とか歓ばせようと、お殿さまは日々、あの手この手を尽くしているが、奥方は、にこりともしない。榊原のお殿さまは、奥方の色香に血迷い、真に狂うてしまわれたというぞ。
 そんな流言さえ巷で囁かれているという。
 その朝、泉水は居間にいた。いつものように障子を開け放し、縁越しにひろがる庭をぼんやりと眺めていた。一昨日、側仕えの腰元美倻から聞いた話が頭の中から離れない。
 美倻は三ヵ月前、屋敷を出るまでたった一人、この館で信頼できる存在であった。それは戻ってきた今でも変わらない。帰還後、泉水は突然、美倻にすら何も告げずいなくなったことを詫びた。が、美倻は微笑んで首を振るだけであった。そして、責めることもせず何を問うこともなく、以前と何ら変わりなく忠実な腰元として誠心誠意仕えてくれる。
―お千紗の方さまが先月半ば、亡くなられたのでございます。

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