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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第5章 《謎の女》

 時橋はいつものように屋敷を黙って抜け出そうとしてことを怒りもせず、ただ黙って泉水の泣きたいだけ泣かせてくれた。
ー殿のお母君さまもその女の存在をお認めになっていらっしゃるとー。
ー何しろ、その側妾が懐妊しているとなればー。
 先刻の二人のやりとりが耳の奥でうおんうおんとうなり声を上げて響く。泉水は思わず両手で耳を塞いだ。
「お方さま? 一体いかがなさったのでございますか?」
 泉水の到底尋常ではない取り乱し様に、時橋はかえって落ち着いていた。いつもの少し大仰にも思える態度は微塵もない。
 泉水は時橋のその落ち着いた態度を意外に思うと共に、少し救われたような気になった。ここで時橋にまで狼狽えられたら、泉水もどうしたら良いか判らなくなってしまうだろうから。
「噂を聞きました」
 ぽつりと呟くと、時橋は眉根を寄せた。
「噂、にございますか?」
 少し考えるようなそぶりを見せ、泉水の顔を窺うように見る。
「一体いかようなる噂を?」
 泉水は自嘲気味に言った。
「殿に側女がいるとの噂じゃ」
「まさか」
 時橋が一笑に付そうとするのに、泉水は鋭く問うた。
「時橋、そなたは知っておったのではないか、この噂、表の方では真しやかに語られておるそうな。そなたほどの情報通がこの噂を知らぬとは思えぬ。そなたのことじゃ、私に要らざる心配をさせまいと黙っておったのであろう。したが、私はたった今、この耳で確かに聞いた。殿にはお手つきの女子がおって、その女を町中の屋敷に住まわせており、あまつさえ、その女は殿のお子を身ごもっておるとそうな」
「誰がそのような根も葉もない噂をお方さまのお耳に入れたのでござりますか」
 時橋が蒼白になる。泉水は笑った。
「噂の出所など、この際、どうでも良きこと。もっとも、奥向きに仕える女中たちがああまでお喋りであったとは流石に思いもしなかったが。老女の河嶋に申して、もう少し口の堅い者を選ぶ方が良いかもしれぬな」
 と、最後の科白は少し戯れ言めいて言った。

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