胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第37章 花の別れ
刻(とき)は人々の上に、ひそやかに降り積もる。
その年の冬、江戸は何度も大雪に見舞われ、江戸から離れた山上の尼寺もしばしば雪に埋もれ、閉ざされた。ただでさえ訪れる者とておらぬこの山の庵は雪に降り込められると、たちまちにして下界と完全に遮断される。
泉水は雪化粧を施された寺の庭に佇み、空を仰いだ。寒走った冬特有の薄蒼い空が頭上にひろがっている。
二日間降り続いた雪も漸く止み、今は冬の陽が弱々しい光を投げかけていた。陽光に照らされ雪が溶け始め、地面がむき出しになった部分がわずかにある。泉水はしゃがみ込むと、ぽっかりと割れた雪の間を覗いた。
「まあ、福寿草」
周囲を雪ばかりに囲まれた中、そこだけ地面が露わになった穴のような場所で、黄色い小さな花が寄り添い合って咲いている。どんなに苛酷な環境でも、花は耐え抜き、己れの花を咲かせる。自然の、生命の尊(たつと)さに頭の下がる想いがして、泉水は思わず畏敬の念を憶えずにはおれなかった。
江戸を離れてから、はや何年どころか、何十年経っただろう。積み重ねてゆく年月のあまりの長さに、いつしか指を折って数えるのも忘れてしまった。
かつての仏道の師であった光照を初め、寺男伊左久もとうに亡くなった。一人娘が嫁いで落ち着いたのを見届けた後、泉水は懐かしいこの庵へと帰ってきたのである。その時、既に光照も伊左久もこの世の人ではなく、庵は見る影もないほど無惨に荒れ果てていた。それを泉水が一人で修理して、何とか人が住めるようにまでしたのだ。
何より、この寺の片隅には乳母の時橋も眠っている。ここより他に余生を過ごすにふさわしい場所があるとは思えなかった。
今では榊原家に残した黎次郎改めて泰暁も立派に成人し、既に泰暁の嫡男泰晴が十八となり、妻を迎え、今年の夏には初めての子が生まれる。
泰雅の死後、生まれた娘は征(いく)と名付けた。女一人で仕立て物の内職をしながら育て上げた子は、近隣でも美人で気立ても良い二拍子揃っていると誰もが認めるほどの娘に育った。