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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第37章 花の別れ

 おせんが兵庫之助の死後、姿を消して再びこの長屋に戻ってくるまでの空白の一ヶ月間、どこで何をしていたのか。
 それを問いただしたい想いはあった。だが、今更、訊ねたところで何になるというのだろう。おせんの惚れた男を殺めた榊原泰雅が病死したという事実もついに伝えずじまいになった。だが、かえって、言わなくて良かったのではないかと勘七は思う。
 何はともあれ、おせんは今、前を向いて生きようとしている。何かを吹っ切ったような晴れ晴れとした彼女の表情は、逆にその境地に至るまでのおせんの葛藤や苦しみを忍ばせた。過去など振り返っても、辛いだけで意味はない。市井で雄々しく生きようとするおせんにとって、既に榊原家も何もかもが拘わりのないものであった。
 おせんが前を向いて生きようとするのであれば、それで良い。何より、おせんの胎内では赤子が元気に育っているのだ。これからは亡き兵庫之助の代わりに、この子がおせんの支えとなり、生きる希望となるだろう。
 勘七は影ながら、これからも、おせん母子を見守ってゆくつもりだった。
 江戸は今、梅が盛りである。春の風に乗って梅の香が流れてきて、勘七は団子鼻をしきりにひくつかせた。
 どこかで鶯が啼いている。
 勘七はいつになく弾んだ気分になって、滅多と吹かない口笛を吹いた。

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